亀山こども歴史館トップページ 亀山城(かめやまじょう)と宿場(しゅくば)亀山城(かめやまじょう)のつくり

[亀山城と宿場]亀山城(かめやまじょう)は、室町時代(むろまちじだい)から江戸時代(えどじだい)を通(つう)じて、亀山(かめやま)の政治(せいじ)や経済(けいざい)の中心(ちゅうしん)でした。このため、城(しろ)はまちの中心(ちゅうしん)にあってよく目立(めだ)つようにつくられています。どんな特長(とくちょう)があるのかを調(しら)べてみましょう。

亀山城(かめやまじょう)のつくり

(しろ)は、土木工事(どぼくこうじ)で全体(ぜんたい)を造(つく)り、これに建物(たてもの)を組(く)み合(あ)わされたものです。亀山城(かめやまじょう)はどのように造(つく)られているのかを調(しら)べてみましょう。


※いろんなところにマウスを合(あ)わせると、説明(せつめい)がでます。

本丸(ほんまる) 江戸口門(えどぐちもん) 大手門(おおてもん) 神戸櫓(かんべやぐら) 太鼓門(たいこもん) 太鼓櫓(たいこやぐら) 二之丸北帯曲輪(にのまるきたおびぐるわ) 二之丸北埋門 二之丸御殿(にのまるごてん) 向御殿(むこうごてん) 石坂門(いしざかもん) 三重櫓(さんじゅうやぐら) 楠門(くすもん) 本丸御殿(ほんまるごてん) 本丸多門櫓(ほんまるたもんやぐら) 関見櫓(せきみやぐら) 黒門(くろもん) 加藤家屋敷(かとうけやしき) 青木門(あおきもん) 京口門(きょうぐちもん) 二之丸(にのまる) 西之丸(にしのまる) 東三之丸(ひがしさんのまる) 西出丸(にしでまる) 池(いけ)の側(かわ) 公園池(こうえんいけ) しょうぶ園(えん) 内堀(うちぼり)

本丸(ほんまる)

亀山城(かめやまじょう)の中心(ちゅうしん)となる曲輪(くるわ)です。江戸時代(えどじだい)のはじめごろには、江戸(えど)から京都(きょうと)を往(い)き来(き)する徳川将軍(とくがわしょうぐん)が泊(と)まる御殿(ごてん)がおかれていました。

現在(げんざい)の場所(ばしょ)

本丸(ほんまる)の跡(あと)は亀山神社(かめやまじんじゃ)と亀山公園(かめやまこうえん)のますみ児童園(じどうえん)になっています。(本丸町(ほんまるちょう)


江戸口門(えどぐちもん)

東海道(とうかいどう)の亀山(かめやま)の中心部分(ちゅうしんぶぶん)の東入口(ひがしいりぐち)に1673年(ねん)(延宝(えんぽう)元年(がんねん))に設(もう)けられた門(もん)で、堀(ほり)をめぐらし番所(ばんしょ)や櫓(やぐら)をかまえて東海道(とうかいどう)を行(い)き来(き)する人々(ひとびと)を監視(かんし)していました。西(にし)の京口(きょうぐち)に対(たい)して東(ひがし)(江戸(えど)の方向(ほうこう))にあるので江戸口門(えどぐちもん)の名(な)があります。

江戸口門(えどぐちもん)のあと

江戸口門(えどぐちもん)のあとはすっかり取(と)り壊(こわ)され、現在(げんざい)は銀行(ぎんこう)や駐車場(ちゅうしゃじょう)などになっています。東町(ひがしまち)から本町(ほんまち)に道(みち)が直角(ちょっかく)に曲(ま)がるのは門(もん)があったころのなごりです。


大手門(おおてもん)

大手門(おおてもん)は亀山城(かめやまじょう)の正門(せいもん)で、東三之丸(ひがしさんのまる)の東端(とうたん)にあって東海道(とうかいどう)への出入(でい)り口(ぐち)となります。記録(きろく)では、門(もん)の上(うえ)に長(なが)さ18m、幅(はば)5.4mもの多門櫓(たもんやぐら)がありました。

大手門石垣(おおてもんいしがき)の石(いし)

東丸町(ひがしまるちょう)の歩道(ほどう)わきにならんでいる大(おお)きな石(いし)は、大手門(おおてもん)の石垣(いしがき)に使(つか)われていた石(いし)とみられます。

大手門(おおてもん)の写真(しゃしん)

大手門(おおてもん)をとりこわす前(まえ)にとられた写真(しゃしん)がのこされています。大手門(おおてもん)とその横(よこ)にある大手脇櫓(おおてわきやぐら)のようすがよくわかります。


神戸櫓(かんべやぐら)

二之丸北東(にのまるほくとう)の隅(すみ)にあった二階建(にかいだ)ての櫓(やぐら)で、神戸(かんべ)(鈴鹿市神戸(すずかしかんべ))の方向(ほうこう)にあるからとか、神戸城(かんべじょう)から建物(たてもの)を移(うつ)したため神戸櫓(かんべやぐら)という名前(なまえ)になったと言(い)われます。1854年(ねん)(嘉永(かえい)7年(ねん))の大地震(だいじしん)で倒(たお)れたとの記録(きろく)があります。


太鼓門(たいこもん)

二之丸(にのまる)の東端(とうたん)から東三之丸(ひがしさんのまる)への出入(でい)り口(ぐち)となる門(もん)で、脇(わき)に太鼓櫓(たいこやぐら)があることから太鼓門(たいこもん)とよばれていました。

太鼓門(たいこもん)のあと

東丸町(ひがしまるちょう)の姫垣外苑(ひめがきがいえん)の、道路(どうろ)がおれまがっているところが太鼓門(たいこもん)のあとです。


太鼓櫓(たいこやぐら)

二之丸(にのまる)の東端(とうたん)にあった三階建(さんかいだ)ての櫓(やぐら)で、一番上(いちばんうえ)に太鼓(たいこ)を置(お)いて時間(じかん)を知(し)らせていました。1854年(ねん)(嘉永(かえい)7年(ねん))の大地震(だいじしん)で倒(たお)れたとの記録(きろく)があります。

太鼓櫓跡(たいこやぐらあと)

現在(げんざい)、姫垣外苑(ひめがきがいえん)と呼(よ)ばれている道路(どうろ)の工事中(こうじちゅう)に太鼓櫓(たいこやぐら)の一番下(いちばんした)の石垣(いしがき)の一部(いちぶ)がみつかりました。石垣(いしがき)は埋(う)め戻(もど)して道路(どうろ)には見(み)つかった石垣(いしがき)の形(かたち)のタイルで石垣(いしがき)が埋(う)められている場所(ばしょ)を示(しめ)しています。

太鼓櫓(たいこやぐら)の絵(え)

1877年(ねん)(明治(めいじ)10年(ねん))竹井亀次郎(たけいかめじろう)という画家(がか)がとりこわす直前(ちょくぜん)の太鼓櫓(たいこやぐら)を絵(え)にかいています。


二之丸北帯曲輪(にのまるきたおびぐるわ)

二之丸北側(にのまるきたがわ)の帯曲輪(おびぐるわ)は、亀山城主(かめやまじょうしゅ)の屋敷(やしき)がある二之丸(にのまる)の守(まも)りを固(かた)めるために造(つく)られました。二之丸(にのまる)と帯曲輪(おびぐるわ)の上下(じょうげ)から鉄砲(てっぽう)や矢(や)をうてるようにしています。発掘(はっくつ)や古(ふる)い図面(ずめん)などを調(しら)べてむかしの姿(すがた)に復元(ふくげん)されています。

二之丸帯曲輪(にのまるおびぐるわ)の使(つか)われかた

帯曲輪(おびぐるわ)はもともと城(しろ)を守(まも)るためにつくられています。しかし、二之丸北帯曲輪(にのまるきたおびぐるわ)からは、きれいな石(いし)をくみあわせたみぞや水(みず)をためておく場所(ばしょ)がみつかっています。戦(たたか)いがない時代(じだい)が続(つづ)いたので、江戸時代(えどじだい)のおわりごろには。花畑(はなばたけ)や庭(にわ)の一部(いちぶ)として使(つか)われていたようです。

二之丸北帯曲輪土塁(にのまるきたおびぐるわどるい)

二之丸北側(にのまるきたがわ)の帯曲輪(おびぐるわ)の外側(そとがわ)は土塁(どるい)となっています。この土塁(どるい)の角度(かくど)は37°の急(きゅう)な斜面(しゃめん)となっています。


二之丸北埋門

二之丸(にのまる)から二之丸北側(にのまるきたがわ)にある帯曲輪(おびぐるわ)への出入(でい)り口(ぐち)となる埋門(うずみもん)のあとがみつかっています。みつかったときのじょうたいをみることができるように整備(せいび)されています。

二之丸北埋門(にのまるきたうずみもん)の使(つか)われかた

二之丸北埋門(にのまるきたうずみもん)は、江戸時代(えどじだい)のおわりごろには門(もん)の扉(とびら)があった場所(ばしょ)に、黒(くろ)いきれいな小石(こいし)をしきつめていました。花畑(はなばたけ)や庭(にわ)の一部(いちぶ)として使(つか)われていた二之丸北帯曲輪(にのまるきたおびぐるわ)へ城主(じょうしゅ)など身分(みぶん)の高(たか)い人(ひと)が通(とお)るため、見(み)た目(め)をきれいにしたようです。


二之丸御殿(にのまるごてん)

亀山城主(かめやまじょうしゅ)が住(す)む屋敷(やしき)と領地(りょうち)を治(おさ)める役所(やくしょ)を兼(か)ねた大(おお)きな建物(たてもの)がつながっていました。特(とく)に儀式(ぎしき)を行(おこな)う建物(たてもの)は面積(めんせき)も大(おお)きく、天守(てんしゅ)がない亀山城(かめやまじょう)では一番(いちばん)重要(じゅうよう)な建物(たてもの)でした。火事(かじ)などで何度(なんど)も建(た)てなおされ、一番(いちばん)最後(さいご)に建(た)てなおされたのは1862年(ねん)(文久(ぶんきゅう)2年(ねん))のことです。

(み)つかった二之丸御殿(にのまるごてん)あと

亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)を建(た)てかえるときに古(ふる)い校舎(こうしゃ)や運動場(うんどうじょう)の下(した)から御殿(ごてん)の建物(たてもの)あと井戸(いど)、御殿(ごてん)で使(つか)われていた大量(たいりょう)の茶(ちゃ)わんや皿(さら)などがみつかりました。この中(なか)には陶器(とうき)を焼(や)くための小(ちい)さなかまや茶道(さどう)に使(つか)う焼(や)き物(もの)もありました。

二之丸御殿(にのまるごてん)の建物(たてもの)と写真(しゃしん)

二之丸御殿(にのまるごてん)は、1871年(ねん)(明治(めいじ)4年(ねん))から県庁(けんちょう)となり、翌年(よくねん)にはとりこわされました。この直前(ちょくぜん)に撮影(さつえい)された写真(しゃしん)がのこされており、かつての御殿(ごてん)の姿(すがた)がうかがえます。また、御殿(ごてん)の玄関(げんかん)とこれにつながっていた建物(たてもの)(大書院(だいしょいん))は、西町(にしまち)遍照寺(へんじょうじ)の本堂(ほんどう)として今(いま)も残(のこ)っています。


向御殿(むこうごてん)

二之丸御殿(にのまるごてん)の道(みち)をはさんだ南側(みなみがわ)にあった小(ちい)さな御殿(ごてん)で、城主(じょうしゅ)の家族(かぞく)などが住(す)む屋敷(やしき)として使(つか)われていました。


石坂門(いしざかもん)

二之丸(にのまる)の南端(なんたん)から西之丸(にしのまる)への出入(でい)り口(ぐち)となる門(もん)で、亀山城(かめやまじょう)では一番(いちばん)(おお)きな門(もん)です。門(もん)の上(うえ)に南北(なんぼく)21.8m、東西(とうざい)10.8mのL字形(じがた)の多門櫓(たもんやぐら)がありました。1854年(ねん)(嘉永(かえい)7年(ねん))の大地震(だいじしん)で倒(たお)れましたが、1863年(ねん)(文久(ぶんきゅう)3年(ねん))に建(た)てなおされています。

石坂門(いしざかもん)の石垣(いしがき)

石坂門(いしざかもん)があった場所(ばしょ)の道路工事(どうろこうじ)の時(とき)に、石坂門(いしざかもん)の石垣(いしがき)の一番下(いちばんした)の部分(ぶぶん)が残(のこ)っていることがわかりました。みつかった石垣(いしがき)は歴史博物館(れきしはくぶつかん)の前(まえ)に移(うつ)されて保存(ほぞん)されています。

石坂門(いしざかもん)の瓦(かわら)

石坂門(いしざかもん)の櫓(やぐら)は、1876年(ねん)(明治(めいじ)9年(ねん))に西町(にしまち)のしょうゆ屋(や)の蔵(くら)として移(うつ)されていましたので、最近(さいきん)まで建物(たてもの)が残(のこ)っていました。現在(げんざい)は、歴史博物館(れきしはくぶつかん)の展示室(てんじしつ)のなかにじっさいに櫓(やぐら)で使(つか)われていた瓦(かわら)を使(つか)って元(もと)の大(おお)きさで石坂門(いしざかもん)の多門櫓(たもんやぐら)一部(いちぶ)が復元(ふくげん)されています。


三重櫓(さんじゅうやぐら)

本丸(ほんまる)の一番北(いちばんきた)にあった亀山城(かめやまじょう)で一番(いちばん)(おお)きい櫓(やぐら)で、3階建(かいだ)てであることから三重櫓(さんじゅうやぐら)と呼(よ)ばれました。一階(いっかい)は7.9m×10.8m、二階(にかい)は5.9m×8.9m、三階(さんかい)は4.9m×7.9mの大(おお)きさで、高(たか)さは基礎(きそ)の部分(ぶぶん)から17mもありました。

三重櫓(さんじゅうやぐら)のあと

三重櫓(さんじゅうやぐら)が建(た)てられていた土塁(どるい)はますみ児童園(じどうえん)をつくるときにけずられて今(いま)はありません。ますみ児童園(じどうえん)の北端(ほくたん)にある高(たか)まりは、工事(こうじ)の時(とき)に本丸(ほんまる)をけずりのこしたあとで、この上(うえ)からさらに4mほどの高(たか)さから三重櫓(さんじゅうやぐら)が建(た)てられていました。

三重櫓(さんじゅうやぐら)の写真(しゃしん)

三重櫓(さんじゅうやぐら)は城(しろ)が廃止(はいし)された後(あと)に取(と)り壊(こわ)され、その材木(ざいもく)は本宗寺(ほんしゅうじ)(市ヶ坂町(いちがさかちょう))の本堂(ほんどう)を建(た)てなおすのに使(つか)われています。ただ、とりこわす前(まえ)に掘(ほり)をはさんだ北東(ほくとう)から写真(しゃしん)がとられており、かつての姿(すがた)をうかがうことができます。


楠門(くすもん)

本丸東側(ほんまるひがしがわ)の出入(でい)り口(ぐち)となる門(もん)で、本丸(ほんまる)の正門(せいもん)となります。亀山城(かめやまじょう)を整備(せいび)した時(とき)に古(ふる)い亀山城(かめやまじょう)から移(うつ)してきたと言(い)われています。1854年(ねん)(嘉永(かえい)7年(ねん))の大地震(だいじしん)で倒(たお)れたとの記録(きろく)があります。


本丸御殿(ほんまるごてん)

本丸(ほんまる)にあった御殿(ごてん)で、はじめはこの御殿(ごてん)に城主(じょうしゅ)が住(す)んでいたようです。その後(ご)、徳川将軍(とくがわしょうぐん)が江戸(えど)と京都(きょうと)を往復(おうふく)するときに泊(と)まる御殿(ごてん)となりました。将軍(しょうぐん)が江戸(えど)から離(はな)れることがなくなったので1712年(ねん)(正徳(しょうとく)2年(ねん))にとりこわされました。


本丸多門櫓(ほんまるたもんやぐら)

本丸(ほんまる)の南東隅(なんとうすみ)の石垣(いしがき)の上(うえ)に建(た)つ多門櫓(たもんやぐら)で、ほかの多門櫓(たもんやぐら)がすべてとりこわされたので多門櫓(たもんやぐら)と言(い)えばこの櫓(やぐら)のことをさすようになりました。

多門櫓(たもんやぐら)

多門(たもん)とは長屋(ながや)のように細長(ほそなが)い建物(たてもの)のことです。細長(ほそなが)い櫓(やぐら)を多門櫓(たもんやぐら)と呼(よ)んでいました。亀山城(かめやまじょう)にもいくつかの多門櫓(たもんやぐら)があったのですが、現在(げんざい)は本丸(ほんまる)にあった多門櫓(たもんやぐら)だけがのこされています。


関見櫓(せきみやぐら)

西出丸(にしでまる)の西端(せいたん)にあった二階建(にかいだ)ての櫓(やぐら)で、関(せき)の方向(ほうこう)を見(み)る場所(ばしょ)にあることから関見櫓(せきみやぐら)という名前(なまえ)となったようです。


黒門(くろもん)

西之丸(にしのまる)の西端(せいたん)の門(もん)で、市ヶ坂(いちがさか)の武家屋敷(ぶけやしき)への出入(でい)り口(ぐち)です。1735年(ねん)(享保(きょうほう)20年(ねん))の大火事(おおかじ)で付近(ふきん)の武家屋敷(ぶけやしき)とともに焼(や)けたという記録(きろく)があります。


加藤家屋敷(かとうけやしき)

西之丸(にしのまる)あとに武家屋敷(ぶけやしき)がのこっています。ここは、亀山藩(かめやまはん)の家老(かろう)の屋敷(やしき)あとで、江戸時代(えどじだい)の終(お)わりごろは、亀山藩(かめやまはん)家老(かろう)加藤家(かとうけ)の屋敷(やしき)となっていました。

加藤家(かとうけ)長屋門(ながやもん)

亀山藩(かめやまはん)家老(かろう)加藤家(かとうけ)の表門(おもてもん)で、横(よこ)に小(ちい)さな部屋(へや)がならぶ細長(ほそなが)い建物(たてもの)がくっついていますので長屋門(ながやもん)と言(い)います。江戸時代(えどじだい)の終(お)わりごろ、今(いま)から200年(ねん)ほど前(まえ)に建(た)てられたとみられます。


青木門(あおきもん)

東海道(とうかいどう)への出入(でい)り口(ぐち)となるもうひとつの門(もん)で、西之丸(にしのまる)の南端(なんたん)にありました。1615年(ねん)(慶長(けいちょう)20年(ねん))に亀山城(かめやまじょう)に泊(と)まった徳川家康(とくがわいえやす)が、この門(もん)から出(で)てゆくときに、アオキの木(き)が茂(しげ)っているのを見(み)て「おお、青木(あおき)」と言(い)ったことから青木門(あおきもん)という名前(なまえ)となったと伝(つた)えられます。

青木門(あおきもん)のあと

西丸町(にしまるちょう)の西(にし)の丸(まる)庭園(ていえん)の南側(みなみがわ)で、道路(どうろ)がおれまがっているところが青木門(あおきもん)のあとです。


京口門(きょうぐちもん)

東海道(とうかいどう)の亀山(かめやま)の町(まち)の西入口(にしいりぐち)に、1672年(ねん)(寛文(かんぶん)12年(ねん))に設(もう)けられた門(もん)で、番所(ばんしょ)や櫓(やぐら)をかまえて東海道(とうかいどう)を行(い)き来(き)する人々(ひとびと)を監視(かんし)していました。橋(はし)がかかる竜川(たつかわ)(岩滑川(いわなめがわ))から見(み)あげた姿(すがた)が立派(りっぱ)に見(み)えたので、「亀山(かめやま)にすぎたるものの二(ふた)つあり伊勢屋(いせや)ソテツと京口御門(きょうぐちごもん)」と歌(うた)にされていたと伝(つた)えられます。

歌川広重(うたがわひろしげ)と京口門(きょうぐちもん)

歌川広重(うたがわひろしげ)は東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)のようすを浮世絵(うきよえ)に描(えが)きました。この中(なか)で亀山(かめやま)は、「雪晴(ゆきばれ)」と題(だい)して雪(ゆき)が降(ふ)った翌朝(よくあさ)の京口門(きょうぐちもん)を描(えが)いています。広重(ひろしげ)の東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)のシリーズは大人気(だいにんき)となりましたので、亀山(かめやま)といえば京口門(きょうぐちもん)がイメージされるようになり、その後(ご)の広重(ひろしげ)やほかの浮世絵画家(うきよえがか)も描(えが)くようになりました。

京口門(きょうぐちもん)の写真(しゃしん)

明治時代(めいじじだい)のはじめに、取(と)り壊(こわ)される前(まえ)の京口門(きょうぐちもん)が写真(しゃしん)にとられています。写真(しゃしん)は歌川広重(うたがわひろしげ)が描(えが)く「雪晴(ゆきばれ)」と同(おな)じ方向(ほうこう)からとられており、撮影(さつえい)した人(ひと)が広重(ひろしげ)の浮世絵(うきよえ)を意識(いしき)していたとみられます。

京口門(きょうぐちもん)のあと

京口門(きょうぐちもん)のあたりは、今(いま)から100年(ねん)ほど前(まえ)に橋(はし)がかけられ、道(みち)の位置(いち)が大(おお)きく変(か)わってしまいました。このため門(もん)の正確(せいかく)な場所(ばしょ)はよくわかっていません。ただ、梅巌寺(ばいがんじ)の墓地(ぼち)の中(なか)に京口門(きょうぐちもん)にともなう土塁(どるい)の一部(いちぶ)が残(のこ)されています。


二之丸(にのまる)

亀山城主(かめやまじょうしゅ)が住(す)む屋敷(やしき)と領地(りょうち)を治(おさ)める役所(やくしょ)を兼(か)ねた御殿(ごてん)、馬(うま)に乗(の)る練習(れんしゅう)をする馬場(ばば)が置(お)かれており、亀山城(かめやまじょう)では一番(いちばん)(おお)きな曲輪(くるわ)です。

現在(げんざい)の場所(ばしょ)

二之丸(にのまる)の跡(あと)は亀山市役所(かめやましやくしょ)・亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)・住宅地(じゅうたくち)になっています。(本丸町(ほんまるちょう)


西之丸(にしのまる)

本丸(ほんまる)・西出丸(にしでまる)の南側(みなみがわ)にある曲輪(くるわ)で、南三之丸(みなみさんのまる)とも呼(よ)びます。家老(かろう)など身分(みぶん)の高(たか)い武士(ぶし)の大(おお)きな屋敷(やしき)のほか、江戸時代(えどじだい)の終(お)わりには亀山藩(かめやまはん)の学校(がっこう)である明倫舎(めいりんしゃ)がおかれました。

現在の場所

西之丸の跡は亀山中学校と城西コミュニティ、住宅地になっています。亀山藩家老の加藤家屋敷跡があります。(西丸町)


東三之丸(ひがしさんのまる)

二之丸(にのまる)の東側(ひがしがわ)にある曲輪(くるわ)で、米(こめ)を蓄(たくわ)えておく土蔵(どぞう)のほか、家老(かろう)など身分(みぶん)の高(たか)い武士(ぶし)の大(おお)きな屋敷(やしき)がおかれていました。

現在(げんざい)の場所(ばしょ)

東三之丸(ひがしさんのまる)の跡(あと)は亀山市役所駐車場(かめやましやくしょちゅうしゃじょう)と住宅地(じゅうたくち)になっています。(東丸町(ひがしまるちょう)


西出丸(にしでまる)

本丸(ほんまる)の西側(にしがわ)にある曲輪(くるわ)で、幕府(ばくふ)から預(あず)かった米(こめ)を蓄(たくわ)えておく蔵(くら)が建(た)てられていました。

現在(げんざい)の場所(ばしょ)

西出丸(にしでまる)の跡(あと)は亀山神社(かめやまじんじゃ)と亀山公園(かめやまこうえん)の駐車場(ちゅうしゃじょう)とテニスコートになっています。(西丸町(にしまるちょう)


(いけ)の側(かわ)

二之丸(にのまる)南側(みなみがわ)の水堀(みずぼり)で、水(みず)がわいている谷(たに)を道(みち)でふさいで水堀(みずぼり)にしています。谷(たに)をふさいだ道(みち)の部分(ぶぶん)を池(いけ)の側(かわ)とよんでいたのですが、いつのまにかこれが堀(ほり)の名前(なまえ)になってしまいました。


公園池(こうえんいけ)

本丸北側(ほんまるきたがわ)の水堀(みずぼり)で、水(みず)がわいている深(ふか)い谷(たに)の口(くち)を堤防(ていぼう)でふさいで水堀(みずぼり)としています。この堤防(ていぼう)を柳堤(やなぎのつつみ)とよんでいました。この堀(ほり)のあたりが城(しろ)が廃止(はいし)されてから亀山公園(かめやまこうえん)となったので公園池(こうえんいけ)と呼(よ)んでいます。池(いけ)にかかる橋(はし)も公園(こうえん)になってからかけられたものです。


しょうぶ園(えん)

公園池西側(こうえんいけにしがわ)のしょうぶ園(えん)は、水堀(みずぼり)につながる空堀(からぼり)がうめられたあとにつくられました。もとの深(ふか)さまでは3.5mもあります。


内堀(うちぼり)

本丸(ほんまる)から西出丸(にしでまる)の南側(みなみがわ)は、もともと水(みず)がわく谷(たに)でした。この谷(たに)の口(くち)に土(つち)を盛(も)って石坂門(いしざかもん)へ向(む)かう道(みち)(土橋(どばし))としました。この土橋(どばし)が堤防(ていぼう)がわりとして谷(たに)に水(みず)をためて水堀(みずぼり)としました。江戸時代(えどじだい)には亀山藩(かめやまはん)の武士(ぶし)が水泳(すいえい)の練習(れんしゅう)をしたと伝(つた)えられます。

(う)められた内堀(うちぼり)

亀山城(かめやまじょう)が廃止(はいし)されたあと、内堀(うちぼり)は西側(にしがわ)から次第(しだい)に埋(う)められてゆきました。埋(う)められた土(つち)の中(なか)に1921年(ねん)(大正(たいしょう)10年(ねん))よりあとにつくられたサイダーの空(あ)きびんがまじっていましたので、これよりもあとになってうめられたことがわかります。すっかり埋(う)められた堀(ほり)のあとは、現在(げんざい)、亀山中学校(かめやまちゅうがっこう)のグランドになっています。

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