塀(へい)
城(しろ)や曲輪(くるわ)のまわりを囲(かこ)む石垣(いしがき)や土塁(どるい)の上(うえ)に建(た)てられた櫓(やぐら)や門(もん)の間(あいだ)、曲輪(くるわ)の中(なか)の区画(くかく)や建物(たてもの)の間(あいだ)には塀(へい)がめぐらされて守(まも)りを固(かた)めていました。特(とく)に城(しろ)や曲輪(くるわ)のまわりの塀(へい)には鉄砲(てっぽう)や矢(や)をうつことができる小(ちい)さな窓(まど)(狭間(はざま))が開(あ)けられていたところもありました。
塀(へい)の種類(しゅるい)
城(しろ)の塀(へい)は、塀(へい)が造(つく)られた場所(ばしょ)によって種類(しゅるい)がちがっていました。【惣塀(そうべい)】城(しろ)の一番(いちばん)外側(そとがわ)など敵(てき)から城(しろ)を守(まも)るための塀(へい)【高塀(たかべい)】御殿(ごてん)のまわりなど城(しろ)の中(なか)を区切(くぎ)る塀(へい)【板塀(いたべい)】建物(たてもの)と建物(たてもの)を区切(くぎ)る塀(へい)
塀(へい)の長(なが)さ
江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)(「九々五集(くくごしゅう)」)に、城全体(しろぜんたい)で「瓦塀(かわらべい)」は2.6km、板塀(いたべい)は640mあると書(か)かれています。
復元(ふくげん)された塀(へい)
二之丸北帯曲輪(にのまるきたおびくるわ)と多門櫓(たもんやぐら)の西側(にしがわ)に塀(へい)が復元(ふくげん)されています。多門櫓(たもんやぐら)西側(にしがわ)の塀(へい)は、備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)の塀(へい)を参考(さんこう)に形(かたち)だけ造(つく)ったものです。二之丸北曲輪(にのまるきたくるわ)の塀(へい)は、城(しろ)を壊(こわ)す前(まえ)の撮影(さつえい)された写真(しゃしん)をもとに、江戸時代(えどじだい)の終(お)わりごろと同(おな)じ造(つく)り方(かた)で復元(ふくげん)してあります。
復元(ふくげん)されたの二之丸北帯曲輪(にのまるきたおびくるわ)の塀(へい)
狭間(はざま)(鉄砲(てっぽう)や矢(や)をうつ小窓(こまど))がない塀(へい)
二之丸帯曲輪(にのまるおびくるわ)の塀(へい)には狭間(はざま)がありません。これは、亀山城(かめやまじょう)を壊(こわ)す前(まえ)に撮影(さつえい)した写真(しゃしん)に写(うつ)っている塀(へい)は全部(ぜんぶ)、狭間(はざま)がなかったためです。おそらく、江戸時代(えどじだい)になって戦(たたか)いのない時代(じだい)が長(なが)く続(つづ)いたので、鉄砲(てっぽう)をうつ窓(まど)をつける必要(ひつよう)がなくなったためだと考(かんが)えられます。