亀山こども歴史館トップページ 学校(がっこう)のあゆみ野登(ののぼり)小学校(しょうがっこう)のれきし

[学校(がっこう)のあゆみ]わたしたちが通(かよ)っている学校(がっこう)は、明治時代(めいじじだい)にできましたよ。でも市域(しいき)の学校(がっこう)の歴史(れきし)を調(しら)べると、なんと、江戸時代(えどじだい)にもあったことがわかりました。では、江戸時代(えどじだい)や明治時代(めいじじだい)からの学校(がっこう)ってどんなようすだったんでしょうか。

野登(ののぼり)小学校(しょうがっこう)のれきし


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明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん))9月(がつ)2日(か)
文部省(もんぶしょう)ができました。いまの文部科学省(もんぶかがくしょう)になる前(まえ)の省庁(しょうちょう)です。

明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))8月(がつ)2日(か)
国民(こくみん)みんなが学校(がっこう)で学(まな)ぶことを目指(めざ)した「学制」(がくせい)を文部省(もんぶしょう)が出(だ)しました。

学制(がくせい)によって、全国(ぜんこく)の学区(がっく)は、8大学区(だいがくく)にわけられ、一つの大学区(だいがくく)に大学(だいがく)を一つ置(お)くことになりました。
三重県(みえけん)は、他(ほか)の6県(けん)とともに第2大学区(だいにだいがくく)になりました。
一つの大学区(だいがくく)は、32中学区(ちゅうがくく)にわけられ、1中学区(ちゅうがくく)に中学校(ちゅうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
一つの中学区(ちゅうがくく)は、210小学区(しょうがくく)にわけられ、1小学区(しょうがくく)に小学校(しょうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
したがって、全国(ぜんこく)では大学(だいがく)8校(こう)、中学校(ちゅうがっこう)210校(こう)、小学校(しょうがっこう)53,760校(こう)を置(お)くことになりました。

「学制」(がくせい)では、尋常小学(じんじょうしょうがっこう)を下等小学(かとうしょうがく)と上等小学(じょうとうしょうがく)の教科(きょうか)にわけました。
尋常小学(じんじょうしょうがく)の教科(きょうか)は、男女(だんじょ)とも必(かなら)ず卒業(そつぎょう)しなければならない決(き)まりとしました。
下等小学(かとうしょうがく)は、6歳(さい)から9歳(さい)まで、上等小学(じょうとうしょうがく)は10歳(さい)から13歳(さい)までに卒業(そつぎょう)する決(き)まりとしました。

明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))12月(がつ)3日(か)
この日(ひ)から新暦(しんれき)となり、明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん)(ねん)12月(がつ)3日(か)が、明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))1月(がつ)1日(ついたち)になりました。

明治(めいじ)8年(ねん)(1875年(ねん))8月(がつ)1日(ついたち)
両尾村(ふたおむら)平尾(ひらお)(両尾町(ふたおちょう))の慈眼寺(じげんじ)に両尾学校(ふたおがっこう)ができました。両尾村(ふたおむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
学校(がっこう)では、下等(かとう)4年間(ねんかん)、上等(じょうとう)4年間(ねんかん)、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)8年(ねん)11月(がつ)21日(にち)
安坂山村(あさかやまむら)池山(いけやま)の上条(かみじょう)(安坂山町(あさかやまちょう)池山(いけやま))の郷蔵(ごうぐら)を直(なお)して、安坂山学校(あさかやまがっこう)ができました。安坂山村(あさかやまむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
※郷蔵(ごうぐら):村(むら)で取(と)れた米(こめ)を置(お)いておいた倉庫(そうこ)
学校(がっこう)では、8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)9年(ねん)(1876年(ねん))2月(がつ)24日(にじゅうよっか)
辺法寺村(へんぼうじむら)(辺法寺町(へんぼうじちょう))の不動院(ふどういん)に辺法寺学校(へんぼうじがっこう)ができました。辺法寺村(へんぼうじむら)と太森村(ふともりむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
学校(がっこう)では、8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)10年(ねん)(1877年(ねん))12月(がつ)1日(ついたち)
辺法寺学校(へんぼうじがっこう)が、知方学校(ちかたがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。

明治(めいじ)12年(ねん)(1879年(ねん))9月(がつ)29日(にち)
文部省(もんぶしょう)は、「学制」(がくせい)を廃止(はいし)し、新(あら)たに教育令(きょういくれい)を出(だ)しました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年(ねん)(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
また8年間(ねんかん)の内(ない)、少(すく)なくとも16ヵ月(かげつ)は小学校(しょうがっこう)の教育(きょういく)を受(う)ける決(き)まりとしました。

明治(めいじ)13年(ねん)(1880年(ねん))2月(がつ)28日(にち)
教育令(きょういくれい)が改正(かいせい)されました。これは改正教育令(かいせいきょういくれい)といわれました。

明治(めいじ)14年(ねん)(1881年(ねん))5月(がつ)4日(か)
改正教育令(かいせいきょういくれい)が出(だ)されたことを受(う)けて、小学科(しょうがくか)のわけ方(かた)が下等(かとう)、上等(じょうとう)の二等(にとう)から、初等(しょとう)、中等(ちゅうとう)、高等(こうとう)の三等(さんとう)にわかれました(小学校教則綱領(しょうがっこうきょうそくこうりょう))。
小学校(しょうがっこう)の学期(がっき)は、初等科(しょとうか)が3年間(ねんかん)、中等科(ちゅうとうか)が3年間(ねんかん)、上等科(じょうとうか)が2年間(ねんかん)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。


三重県令 岩村定高(みえけんれい いわむら
さだたか)
さん(いまでいう知事(ちじ))が
(か)いた両尾学校(ふたおがっこう)の額(がく)

明治(めいじ)15年(ねん)(1882年(ねん)
両尾学校(ふたおがっこう)と知方学校(ちかたがっこう)の学(まな)ぶ期間(きかん)が、小学初等科(しょうがくしょとうか)3年間(ねんかん)、小学中等科(しょうがくちゅうとうか)3年間(ねんかん)、あわせて6年間(ねんかん)に変(か)わりました。
安坂山学校(あさかやまがっこう)の学(まな)ぶ期間(きかん)が、小学初等科(しょうがくしょとうか)3年間(ねんかん)に変(か)わりました。

明治(めいじ)16年(ねん)(1883年(ねん))7月(がつ)1日(ついたち)
両尾学校(ふたおがっこう)・知方学校(ちかたがっこう)・小川学校(おがわがっこう)を一緒(いっしょ)にして、朝聞学校(ちょうぶんがっこう)ができました。両尾村(ふたおむら)・辺法寺村(へんぼうじむら)・小川村(おがわむら)・太森村(ふともりむら)の4つの村(むら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
朝聞学校(ちょうぶんがっこう)には、3つの仮教場(かりきょうじょう)ができました。
両尾村(ふたおむら)平尾(ひらお)(両尾町(ふたおちょう))の元(もと)の両尾学校(ふたおがっこう)を第一仮教場(だいいちかりきょうじょう)としました。両尾村(ふたおむら)の初等科(しょとうか)と4つの村(むら)の中等科(ちゅうとうか)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
小川村(おがわむら)(小川町(おがわちょう))の元(もと)の小川学校(おがわがっこう)を第二仮教場(だいにかりきょうじょう)としました。小川村(おがわむら)の初等科(しょとうか)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
辺法寺村(へんぼうじむら)野元坂(やげんざか)(辺法寺町(へんぼうじちょう))の元(もと)の知方学校(ちかたがっこう)を第三仮教場(だいさんかりきょうじょう)としました。辺法寺村(へんぼうじむら)と太森村(ふともりむら)の初等科(しょとうか)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
その後(ご)、朝聞学校(ちょうぶんがっこう)と3つの仮教場(かりきょうじょう)は、いろいろな場所(ばしょ)に移(うつ)りました。

明治(めいじ)19年(ねん)(1886年(ねん))4月(がつ)9日(か)
(あら)たに小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校令(しょうがっこうれい)では、小学校(しょうがっこう)が、尋常科(じんじょうか)と高等科(こうとうか)の二等(にとう)にわけられました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
保護者(ほごしゃ)には、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)の子供(こども)に対(たい)し、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)わせる義務(ぎむ)を負(お)う決(き)まりとしました。
(むら)や町(まち)の状況(じょうきょう)によって、尋常小学科(じんじょうしょうがくか)のかわりに、自費(じひ)で小学簡易科(しょうがくかんいか)を置(お)くことをみとめました。

明治(めいじ)19年(ねん)(1886年(ねん))5月(がつ)25日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けた決(き)まりによって、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、4年間(ねんかん)となりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)も、4年間(ねんかん)となりまた。

明治(めいじ)20年(ねん)(1887年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
朝聞学校(ちょうぶんがっこう)と安坂山学校(あさかやまがっこう)をやめました。

明治(めいじ)20年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
両尾村(ふたおむら)・小川村(おがわむら)・辺法寺村(へんぼうじむら)の3つの村(むら)が、両尾小学簡易科授業所(ふたおしょうがくかんいかじゅぎょうしょ)をつくりました。この学校(がっこう)は、朝聞学校(ちょうぶんがっこう)を引(ひ)き継(つ)いでつくられました。両尾村(ふたおむら)平尾(ひらお)(両尾町(ふたおちょう))の元(もと)の両尾学校(ふたおがっこう)を本校(ほんこう)としました。本校(ほんこう)には、辺法寺村(へんぼうじむら)の簡易科(かんいか)の2年生(ねんせい)と3年生(ねんせい)、小川村(おがわむら)の簡易科(かんいか)の3年生(ねんせい)が通(かよ)いました。
小川村(おがわむら)(小川町(おがわちょう))の元(もと)の小川学校(おがわがっこう)を第一分教場(だいいちぶんきょうじょう)としました。小川村(おがわむら)の簡易科(かんいか)の1年生(ねんせい)と2年生(ねんせい)が通(かよ)いました。
辺法寺村(へんぼうじむら)(辺法寺町(へんぼうじちょう))の川戸(かわと)みとさんの家(いえ)を第二分教場(だいにぶんきょうじょう)としました。辺法寺村(へんぼうじむら)の簡易科(かんいか)の1年生(ねんせい)が通(かよ)いました。
学校(がっこう)では、小学簡易科(しょうがくかんいか)で3年間(ねんかん)(まな)びました。

安坂山村(あさかやまむら)が、安坂山小学簡易科授業所(あさかやましょうがくかんいかじゅぎょうしょ)をつくりました。この学校(がっこう)は、安坂山学校(あさかやまがっこう)を引(ひ)き継(つ)いでつくられました。安坂山村(あさかやまむら)(安坂山町(あさかやまちょう))の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
学校(がっこう)では、小学簡易科(しょうがくかんいか)で3年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)22年(ねん)(1889年(ねん))6月(がつ)1日(ついたち)
両尾小学簡易科授業所(ふたおしょうがくかんいかじゅぎょうしょ)の第一分教場(だいいちぶんきょうじょう)が、白川尋常小学校(しらかわじんじょうしょうがっこう)と一緒(いっしょ)になることになりました。

明治(めいじ)22年(ねん)10月(がつ)1日(ついたち)
両尾小学簡易科授業所(ふたおしょうがくかんいかじゅぎょうしょ)と安坂山小学簡易科授業所(あさかやましょうがくかんいかじゅぎょうしょ)が一緒(いっしょ)になり、野登尋常小学校(ののぼりじんじょうしょうがっこう)と名前(なまえ)が変(か)わりました。野登村(ののぼりむら)(両尾町(ふたおちょう)・辺法寺町(へんぼうじちょう)・安坂山町(あさかやまちょう))の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
学校(がっこう)は、野登村(ののぼりむら)大字両尾(おおあざふたお)字平尾(あざひらお)(両尾町(ふたおちょう))の元(もと)の両尾小学簡易科授業所(ふたおしょうがくかんいかじゅぎょうしょ)を使(つか)いました。野登村(ののぼりむら)大字安坂山(おおあざあさかやま)字池山(あざいけやま)(安坂山町(あさかやまちょう))の元(もと)の安坂山小学簡易科授業所(あさかやましょうがくかんいかじゅぎょうしょ)を分校(ぶんこう)に、野登村(ののぼりむら)大字辺法寺(おおあざへんぼうじ)(辺法寺町(へんぼうじちょう))の元(もと)の両尾小学簡易科授業所(ふたおしょうがくかんいかじゅぎょうしょ)の第二分教場(だいにぶんきょうじょう)を分教場(ぶんきょうじょう)にしました。
学校(がっこう)では、尋常小学科(じんじょうしょうがくか)で4年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))10月(がつ)7日(か)
(あたら)しく小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)にわけられました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。 高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。
学校(がっこう)で学(まな)ぶ年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)と決(き)まりました。
保護者(ほごしゃ)は、児童(じどう)が尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)を終(お)わらない間(あいだ)は、学校教育(がっこうきょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)があることを定(さだ)めました。

明治(めいじ)24年(ねん)(1891年(ねん))11月(がつ)3日(みっか)
野登尋常小学校(ののぼりじんじょうしょうがっこう)が、野登村(ののぼりむら)大字両尾(おおあざふたお)字北田(あざきただ)(野登小学校(ののぼりしょうがっこう)の場所(ばしょ))に新(あたら)しく校舎(こうしゃ)を建(た)てて移(うつ)りました。分教場(ぶんきょうじょう)である元(もと)の両尾小学簡易科授業所(ふたおしょうがくかんいかじゅぎょうしょ)も同(おな)じ場所(ばしょ)へ移(うつ)りました。

明治(めいじ)26年(ねん)(1893年(ねん))5月(がつ)5日(いつか)
2年間(ねんかん)(まな)べる補習科(ほしゅうか)として野登尋常小学校補習科(ののぼりじんじょうしょうがっこうほしゅうか)をつくりました。
明治(めいじ)29年(ねん)(1896年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
野登尋常小学校(ののぼりじんじょうしょうがっこう)の分教場(ぶんきょうじょう)をやめて、全員(ぜんいん)、野登尋常小学校(ののぼりじんじょうしょうがっこう)に通(かよ)うことになりました。

明治(めいじ)32年(ねん)(1899年(ねん))3月(がつ)23日(にち)
野登尋常小学校補習科(ののぼりじんじょうしょうがっこうほしゅうか)をやめました。

明治(めいじ)33年(ねん)(1900年(ねん))8月(がつ)20日(にち)
明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))の小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)されました。
小学校(しょうがっこう)は、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)としました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)の教科(きょうか)を一つの小学校(しょうがっこう)で行(おこな)う学校(がっこう)は、尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)としました。尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は4年間(ねんかん)とし、高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)、または4年間(ねんかん)としました。
(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)にいたる8年間(ねんかん)を学齢(がくれい)と決(き)めました。
保護者(ほごしゃ)は入学(にゅうがく)の始(はじ)めより、卒業(そつぎょう)まで学齢児童(がくれいじどう)に学校(がっこう)で教育(きょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)を負(お)うことが決(き)められました。

明治(めいじ)35年(ねん)(1902年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
野登尋常小学校(ののぼりじんじょうしょうがっこう)は、2年間(ねんかん)の高等科(こうとうか)をつくり、鈴鹿郡野登尋常高等小学校(すずかぐんののぼりじんじょうこうとうしょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。

明治(めいじ)35年(ねん)5月(がつ)26日(にち)
尋常科(じんじょうか)に唱歌科(しょうかか)を新(あたら)しくつくりました。

明治(めいじ)36年(ねん)(1903年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
高等科(こうとうか)で学(まな)ぶ期間(きかん)が、4年間(ねんかん)に変(か)わりました。
尋常科(じんじょうか)に裁縫科(さいほうか)、高等科(こうとうか)に農業科(のうぎょうか)を新(あたら)しくつくりました。


明治(めいじ)38年度高等科卒業生
(ねんどこうとかそつぎょうせい)


大正(たいしょう)11年度(ねんど)の朝礼
(ちょうれい)のようす


大正(たいしょう)13年度(ねんど)の朝礼
(ちょうれい)のようす


大正(たいしょう)13年度(ねんど)の尋常小学校
(じんじょうしょうがっこう)の授業風景(じゅぎょうふうけい)


大正(たいしょう)13年(ねん) 両尾橋(ふたおばし)
のたもとで野外授業(かがいじゅぎょう)


昭和(しょうわ)28年度(ねんど)に新築(しんちく)
された講堂兼屋内体育館(こうどうけん
おくないたいいくかん)

明治(めいじ)40年(ねん)(1907年(ねん))3月(がつ)20日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を改正(かいせい)しました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)が4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)になりました。
義務教育(ぎむきょういく)が、4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)にかわりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)になりました。ただし、3年間(ねんかん)にのばすことができました。

明治(めいじ)41年(ねん)(1908年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
野登尋常高等小学校(ののぼりじんじょうこうとうしょうがっこう)は、義務教育(ぎむきょういく)として、尋常科(じんじょうか)で6年間(ねんかん)(まな)ぶことになりました。
高等科(こうとうか)で学(まな)ぶ期間(きかん)は2年間(ねんかん)になりました。
手工科(しゅこうか)を新(あたら)しくつくりました。

昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年(ねん))3月(がつ)1日(ついたち)
小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)され、国民学校令(こくみんがっこうれい)が出(だ)されました。
国民学校(こくみんがっこう)の教科(きょうか)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)の二つを置(お)くことが決(き)められました。
ただし地域(ちいき)の状況(じょうきょう)によっては、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)を置(お)くことができました。
初等科(しょとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、6年間(ねんかん)、高等科(こうとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)となりました。
国民学校(こくみんがっこう)には、高等科(こうとうか)を修了(しゅうりょう)した児童(じどう)のために、特修科(とくしゅうか)を置(お)くことができました。その修業年限(しゅうぎょうねんげん)は1年間(ねんかん)としました。
(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)を義務教育(ぎむきょういく)としました。 これまでの尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの高等小学校(こうとうしょうがっこう)は、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)を置(お)く国民学校(こくみんがっこう)となりました。

昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
鈴鹿郡野登尋常高等小学校(すずかぐんののぼりじんじょうこうとうしょうがっこう)は、三重県野登村国民学校(みえけんののぼりむらこくみんがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。

昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))3月(がつ)29日(にち)
学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されました。
学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく小学校(しょうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、6年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)12歳(さい)までとなりました。

学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく中学校(ちゅうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
中学校(ちゅうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、3年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
中学校(ちゅうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、小学校(しょうがっこう)を卒業(そつぎょう)した年(とし)から満(まん)15歳(さい)までとなりました。

学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されたことにより、これまでの国民学校(こくみんがっこう)は、小学校(しょうがっこう)とみなすことになりました。

昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
三重県野登村国民学校(みえけんののぼりむらこくみんがっこう)は、三重県鈴鹿郡野登村立野登小学校(みえけんすずかぐんののぼりそんりつののぼりしょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。

昭和(しょうわ)29年(ねん)(1954年(ねん))10月(がつ)1日(ついたち)
(あたら)しく亀山市(かめやまし)ができたため、三重県鈴鹿郡野登村立野登小学校(みえけんすずかぐんののぼりそんりつののぼりしょうがっこう)は、亀山市立野登小学校(かめやましりつののぼりしょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。分校(ぶんこう)の名前(なまえ)も、亀山市立野登小学校安坂山分校(かめやましりつののぼりしょうがっこうあさかやまぶんこう)と変(か)わりました。


昭和(しょうわ)53年(ねん)に廃校(はいこう)
安坂山分校(あさかやまぶんこう)の思(おも)い出(で)
(表紙)(ひょうし)


昭和(しょうわ)53年(ねん)に廃校(はいこう)
安坂山分校(あさかやまぶんこう)の思(おも)い出(で)
(本文(ほんぶん)

昭和(しょうわ)54年(ねん)(1979年(ねん))3月(がつ)
亀山市立野登小学校安坂山分校(かめやましりつののぼりしょうがっこうあさかやまぶんこう)をやめました。



























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