亀山県時代(かめやまけんじだい)の学校(がっこう)
明治(めいじ)2(1869)年(ねん)に明倫舎(めいりんしゃ)は、組織(そしき)が変(か)わって新(あら)たに、明倫館(めいりんかん)と名付(なづ)けられました。
この明倫館(めいりんかん)は、明治(めいじ)4(1871)年(ねん)まで、わずか2年間(ねんかん)だけ続(つづ)きました。
この翌年(よくねん)には「学制(がくせい)」(学校(がっこう)の制度(せいど)を決(き)めた法律(ほうりつ))が定(さだ)められ、文部省(もんぶしょう)により、今(いま)と同(おな)じような学校(がっこう)が作(つく)られていきました。
明倫館(めいりんかん)で使(つか)っていた本(ほん)は、文部省(もんぶしょう)の学校(がっこう)に移(うつ)されました。
明倫館(めいりんかん)で使(つか)われていた本(ほん)(西洋事情(せいようじじょう))
明倫館(めいりんかん)のはんこが押(お)された本(ほん)