加太(かぶと)小学校(しょうがっこう)のれきし
明治(めいじ)4年(ねん)(1871年)(ねん)9月(がつ)2日(か)
文部省(もんぶしょう)ができました。いまの文部科学省(もんぶかがくしょう)になる前(まえ)の省庁(しょうちょう)です。
明治(めいじ)5年(ねん)(1872年)(ねん)8月(がつ)2日(か)
国民(こくみん)みんなが学校(がっこう)で学(まな)ぶことを目指(めざ)した「学制」(がくせい)を文部省(もんぶしょう)が出(だ)しました。
学制(がくせい)によって、全国(ぜんこく)の学区(がっく)は、8大学区(だいがくく)にわけられ、一つの大学区(だいがくく)に大学(だいがく)を一つ置(お)くことになりました。
三重県(みえけん)は、他(ほか)の6県(けん)とともに第2大学区(だいにだいがくく)になりました。
一つの大学区(だいがくく)は、32中学区(ちゅうがくく)にわけられ、1中学区(ちゅうがくく)に中学校(ちゅうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
一つの中学区(ちゅうがくく)は、210小学区(しょうがくく)にわけられ、1小学区(しょうがくく)に小学校(しょうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
したがって、全国(ぜんこく)では大学(だいがく)8校(こう)、中学校(ちゅうがっこう)256校(こう)、小学校(しょうがっこう)53,760校(こう)を置(お)くことになりました。
「学制」(がくせい)では、尋常小学(じんじょうしょうがっこう)を下等小学(かとうしょうがく)と上等小学(じょうとうしょうがく)の教科(きょうか)にわけました。
尋常小学(じんじょうしょうがく)の教科(きょうか)は、男女(だんじょ)とも必(かなら)ず卒業(そつぎょう)しなければならない決(き)まりとしました。
下等小学(かとうしょうがく)は、6歳(さい)から9歳(さい)まで、上等小学(じょうとうしょうがく)は10歳(さい)から13歳(さい)までに卒業(そつぎょう)する決(き)まりとしました。
明治(めいじ)5年(ねん)(1872年)(ねん)12月(がつ)3日(か)
この日(ひ)から新暦(しんれき)となり、明治(めいじ)5年(ねん)(1872年)(ねん)12月(がつ)3日(か)が、明治(めいじ)6年(ねん)(1873年)(ねん)1月(がつ)1日(ついたち)になりました。
明治(めいじ)8年(ねん)(1875年)(ねん)
第(だい)2大学区内(だいがくくない)三重県(みえけん)第(だい)35番中学区(ばんちゅうがくく)第(だい)157番小学区(ばんしょうがくく)島之川原学校(しまのかわらがっこう)が、加太村内(かぶとそんない)に建(た)てられました。
第(だい)2大学区内(だいがくくない)三重県(みえけん)第(だい)35番中学区(ばんちゅうがく)第(だい)158番小学区(ばんしょうがくく)市場学校(いちばがっこう)が、加太村内(かぶとそんない)に建(た)てられました。
明治(めいじ)12年(ねん)(1879年)(ねん)9月(がつ)29日(にち)
文部省(もんぶしょう)は、「学制」(がくせい)を廃止(はいし)し、新(あら)たに教育令(きょういくれい)を出(だ)しました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年(ねん)齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
また8年間(ねんかん)の内(ない)、少(すく)なくとも16ヵ月(かげつ)は小学校(しょうがっこう)の教育(きょういく)を受(う)ける決(き)まりとしました。
明治(めいじ)12年(ねん)(1879年)(ねん)12月(がつ)12日(にち)
島之川原学校(しまのかわらがっこう)と市場学校(いちばがっこう)を合(あ)わせて加太学校(かぶとがっこう)が建(た)てられました。
加太学校(かぶとがっこう)には、下等科(かとうか)と上等科(じょうとうか)が置(お)かれました。
明治(めいじ)13年(ねん)(1880年)(ねん)2月(がつ)28日(にち)
教育令(きょういくれい)が改正(かいせい)されました。これは改正教育令(かいせいきょういくれい)といわれました。
明治(めいじ)14年(ねん)(1881年)(ねん)5月(がつ)4日(か)
改正教育令(かいせいきょういくれい)が出(だ)されたことを受(う)けて、小学科(しょうがくか)のわけ方(かた)が下等(かとう)、上等(じょうとう)の二等(にとう)から、初等(しょとう)、中等(ちゅうとう)、高等(こうとう)の三等(さんとう)にわかれました(小学校教則綱領)。
小学校(しょうがっこう)の学期(がっき)は、初等科(しょとうか)が3年間(ねんかん)、中等科(ちゅうとうか)が3年間(ねんかん)、上等科(じょうとうか)が2年間(ねんかん)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
明治(めいじ)15年(ねん)(1882年)(ねん)3月(がつ)
改正教育令(かいせいきょういくれい)を受(う)けて、加太学校(かぶとがっこう)は、下等科(かとうか)、上等科(じょうとうか)から、初等科(しょとうか)、中等科(ちゅうとうか)の教科(きょうか)を教(おし)える学校(がっこう)となりました。
明治(めいじ)19年(ねん)(1886年)(ねん)4月(がつ)9日(か)
新(あら)たに小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校令(しょうがっこうれい)では、小学校(しょうがっこう)が、尋常科(じんじょうか)と高等科(こうとうか)の二等(にとう)にわけられました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
保護者(ほごしゃ)には、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)の子供(こども)に対(たい)し、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)わせる義務(ぎむ)を負(お)う決(き)まりとしました。
村(むら)や町(まち)の状況(じょうきょう)によって、尋常小学科(じんじょうしょうがくか)のかわりに、自費(じひ)で小学簡易科(しょうがくかんいか)を置(お)くことをみとめました。
明治(めいじ)19年(ねん)(1886年)(ねん)5月(がつ)25日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けた決(き)まりによって、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、4年間(ねんかん)となりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)も、4年間(ねんかん)となりました。
明治(めいじ)20年(ねん)(1887年)(ねん)
小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けて、加太学校(かぶとがっこう)は、加太簡易科授業所(かぶとかんいかじゅぎょうしょ)となり、修業年限(しゅうぎょうねんげん)を3年間(ねんかん)としました。
明治(めいじ)20年(ねん)(1887年)(ねん)4月(がつ)
越川区立(えちがわくりつ)として、青年学校(せいねんがっこう)ができました。
明治(めいじ)21年(ねん)(1888年)(ねん)4月(がつ)
越川区立(えちがわくりつ)の青年学校(せいねんがっこう)が、加太村立分教場(かぶとそんりつぶんきょうじょう)となりました。
明治(めいじ)23年(1890年)(ねん)10月(がつ)7日(か)
新(あたら)しく小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)にわけられました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。
学校(がっこう)で学(まな)ぶ年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)と決(き)まりました。
保護者(ほごしゃ)は、児童(じどう)が尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)を終(お)わらない間(あいだ)は、学校教育(がっこうきょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)があることを定(さだ)めました。
明治(めいじ)23年(ねん)(1890年)(ねん)7月(がつ)
新(あたら)しく出(だ)された小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けて、加太簡易科授業所(かぶとかんいかじゅぎょうしょ)は、加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)となりました。
明治(めいじ)23年(ねん)(1890年)(ねん)9月(がつ)
字小黒見(あざこぐろみ)にあった加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)は、関西鉄道株式会社(かんせいてつどうかぶしきがいしゃ)が関西鉄道(かんせいてつどう)の線路(せんろ)が通(とお)るため、現在地(げんざいち)にうつりました。
明治(めいじ)25年(ねん)(1892年)(ねん)4月(がつ)
加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)の分教場(ぶんきょうじょう)が、加太村越川(かぶとむらえちがわ)に置(お)かれました。
明治(めいじ)25年(ねん)(1892年)(ねん)8月(がつ)15日(にち)
加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)を加太第一尋常小学校(かぶとだいいちじんじょうしょうがっこう)、分教場(ぶんきょうじょう)を加太第二尋常小学校(かぶとだいにじんじょうしょうがっこう)としました。
明治(めいじ)31年(ねん)(1898年)(ねん)7月(がつ)26日(にち)
加太第二尋常小学校(かぶとだいにじんじょうしょうがっこう)をなくし、加太第一尋常小学校(かぶとだいいちじんじょうしょうがっこう)へ合(あ)わせまた。
加太第一尋常小学校(かぶとだいいちじんじょうしょうがっこう)は、加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)となりました。
越川(えちがわ)には、加太尋常小学校分教場(かぶとじんじょうしょうがっこうぶんきょうじょう)を置(お)きました。
明治(めいじ)33年(ねん)(1900年8月(がつ)20日(にち)
明治(めいじ)23年(ねん)(1890年)(ねん)の小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)されました。
小学校(しょうがっこう)は、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)としました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)の教科(きょうか)を一つの小学校(しょうがっこう)で行(おこな)う学校(がっこう)は、尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)としました。尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は4年間(ねんかん)とし、高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)、または4年間(ねんかん)としました。
満(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)にいたる8年間(ねんかん)を学齢(がくれい)と決(き)めました。
保護者(ほごしゃ)は入学(にゅうがく)の始(はじ)めより、卒業(そつぎょう)まで学齢児童(がくれいじどう)に学校(がっこう)で教育(きょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)を負(お)うことが決(き)められました。
明治(めいじ)35年(ねん)(1902年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)の3年(ねん)4年(ねん)の女子(じょし)には裁縫科(さいほうか)を加(くわ)えました。
明治(めいじ)36年(ねん)(1903年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
加太尋常小学校(かぶとじんじょうしょうがっこう)に高等科(こうとうか)を合(あ)わせ置(お)き、加太尋常高等小学校(かぶとじんじょうこうとうしょうがっこう)としました。
明治(めいじ)40年(ねん)(1907年)(ねん)3月(がつ)20日 小学校令(しょうがっこうれい)を改正(かいせい)しました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)が4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)になりました。
義務教育(ぎむきょういく)が、4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)にかわりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)になりました。ただし、3年間(ねんかん)にのばすことができました。
明治(めいじ)41年(ねん)(1908年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
加太尋常高等小学校(かぶとじんじょうこうとうしょうがっこう)の尋常科(じんじょうか)に5年(ねん)、6年(ねん)を置(お)きました。
加太尋常高等小学校(かぶとじんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科(こうとうか)は2年間(ねんかん)とし、各学年(かくがくねん)に手工科(しゅこうか)を加(くわ)えました。
高等科(こうとうか)の男子(だんし)には、農業科(のうぎょうか)を加(くわ)えました。
大正(たいしょう)10年(ねん)(1921年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
加太村対関町学児受託委託(かぶとむらたいせきちょうがくじじゅたくいたく)をやめ、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)4年生(ねんせい)までの児童(じどう)は、越川分教場(えちがわぶんきょうじょう)へ通学(つうがく)させ、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)5年生以上(ねんせいいじょう)は、小黒見(こぐろみ)の本校(ほんこう)へ通学(つうがく)させました。
きねん)加太尋常高等小学校(かぶとじんじょうこうとう
しょうがっこう)校舎(こうしゃ)
二宮尊徳像(にのみやそんとくぞう)
昭和(しょうわ)5年(ねん)(1930年)(ねん)6月(がつ)7日(か)
越川(えちがわ)と金場区内(かねばくない)の尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)4年生以上児童(ねんせいいじょうじどう)の教育事務(きょういくじむ)を関町(せきちょう)に委託(いたく)しました。
昭和(しょうわ)10年(ねん)(1935年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
越川分教場(えちがわぶんきょうじょう)に青年学校(せいねんがっこう)を加(くわ)えました。
昭和(しょうわ)10年(ねん)(1935年)(ねん)6月(がつ)30日(にち)
加太村立加太青年訓練所(かぶとそんりつかぶとせいねんくんれんじょ)を廃校(はいこう)としました。
昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年)(ねん)3月(がつ)1日(ついたち)
小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)され、国民学校令(こくみんがっこうれい)が出(だ)されました。
国民学校(こくみんがっこう)の教科(きょうか)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)の二つを置(お)くことが決(き)められました。
ただし地域(ちいき)の状況(じょうきょう)によっては、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)を置(お)くことができました。
初等科(しょとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、6年間(ねんかん)、高等科(こうとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)となりました。
国民学校(こくみんがっこう)には、高等科(こうとうか)を修了(しゅうりょう)した児童(じどう)のために、特修科(とくしゅうか)を置(お)くことができました。その修業年限(しゅうぎょうねんげん)は1年間(ねんかん)としました。
満(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)を義務教育(ぎむきょういく)としました。
これまでの尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの高等小学校(こうとうしょうがっこう)は、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)を置(お)く国民学校(こくみんがっこう)となりました。
昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
加太尋常高等小学校(かぶとじんじょうこうとうしょうがっこう)は、加太村国民学校(かぶとむらこくみんがっこう)となりました。
昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年)(ねん)3月(がつ)29日(にち)
学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されました。
学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく小学校(しょうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、6年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)12歳(さい)までとなりました。
学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく中学校(ちゅうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
中学校(ちゅうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、3年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
中学校(ちゅうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、小学校(しょうがっこう)を卒業(そつぎょう)した年(とし)から満(まん)15歳(さい)までとなりました。
学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されたことにより、これまでの国民学校(こくみんがっこう)は、小学校(しょうがっこう)とみなすことになりました。
昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年)(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
加太村国民学校(かぶとむらこくみんがっこう)は加太村立加太小学校(かぶとそんりつかぶとしょうがっこう)となりました。
新(あたら)しく加太村立加太中学校(かぶとそんりつかぶとちゅうがっこう)ができました。
村立小学校(かぶとそんりつしょうがっこう)へ書(か)き
直(なお)された優勝旗(ゆうしょうき)
がっこう)加太分校(かぶとぶんこう)の鐘(かね)
がっこう)中学校(ちゅうがっこう)
鬼瓦(おにがわら)
昭和(しょうわ)23年(ねん)(1948年)(ねん)7月(がつ)15日(にち)
関町(せきちょう)・神辺村(かんべむら)・白川村(しらかわむら)・坂下村(さかしたむら)・加太村(かぶとむら)による関町外四ヶ村学校組合立西部中学校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)ができました。
加太村立加太中学校(かぶとそんりつかぶとちゅうがっこう)は、関町外四ヶ村学校組合立西部中学校加太分校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこうかぶとぶんこう)となりました。
昭和(しょうわ)30年(ねん)(1955年)(ねん)2月(がつ)1日(ついたち)
関町(せきちょう)、神辺村(かんべむら)の町小野(まちおの)と会下(えげ)、白川村(しらかわむら)の鷲山(わしやま)と白木一色(しらきいっしき)とが合併(がっぺい)して、新(あたら)しく関町(せきちょう)となりました。
昭和(しょうわ)30年(ねん)(1955年)(ねん)4月(がつ)17日(にち)
関町(せきちょう)と加太村(かぶとむら)、坂下村(さかしたむら)が合併(がっぺい)して、新(あたら)しく関町(せきちょう)となりました。
昭和(しょうわ)30年(ねん)(1955年)(ねん)4月(がつ)17日(にち)
加太村立加太小学校(かぶとそんりつかぶとしょうがっこう)は、関町立加太小学校(せきちょうりつかぶとしょうがっこう)と名前(なまえ)がかわりました。
関町外四ヶ村学校組合立西部中学校加太分校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)は、鈴鹿郡関町亀山市学校組合立西部中学校加太分校(すずかぐんせきちょうかめやましがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこうかぶとぶんこう)となりました。
昭和(しょうわ)31年(ねん)(1956年)(ねん)5月(がつ)29日(にち)
関町立加太小学校越川分校(せきちょうりつかぶとしょうがっこうえちがわぶんこう)ができました。
昭和(しょうわ)32年(ねん)(1957年)(ねん)3月(がつ)31日(にち)
芸濃町立明小学校福徳分教場(げいのうちょうりつあきらしょうがっこうふくとくぶんきょうじょう)が廃止(はいし)となりました。
昭和(しょうわ)32年(ねん)(1957年)(ねん)4月(がつ)
芸濃町萩原(げいのうちょうはぎわら)と福徳(ふくとく)の児童(じどう)と生徒(せいと)が、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)と鈴鹿郡関町亀山市学校組合立西部中学校(すずかぐんせきちょうかめやましがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)に通(かよ)いました。
昭和(しょうわ)33年(ねん)(1958年)(ねん)4月(がつ)1日(にち)
芸濃町萩原(げいのうちょうはぎわら)と福徳(ふくとく)が、関町(せきちょう)に合併(がっぺい)されました。
昭和(しょうわ)36年(ねん)(1961年)(ねん)3月(がつ)31日(にち)
鈴鹿郡関町亀山市学校組合立西部中学校(すずかぐんせきちょうかめやましがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)は、学校組合(がっこうくみあい)をやめたので、関町立関中学校(せきちょうりつせきちゅうがっこう)となりました。
鈴鹿郡関町亀山市学校組合立西部中学校加太分校(すずかぐんせきちょうかめやましがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこうかぶとぶんこう)は、関町立関中学校加太分校(せきちょうりつせきちゅうがっこうかぶとぶんこう)となりました。
昭和(しょうわ)36年(ねん)(1961年)(ねん)9月(がつ)1日(ついたち)
関町立関中学校加太分校(せきちょうりつせきちゅうがっこうかぶとぶんこう)は、関町立関中学校加太校舎(せきちょうりつせきちゅうがっこうかぶとこうしゃ)と名前(なまえ)がかわりました。
昭和(しょうわ)37年(ねん)(1962年)(ねん)3月(がつ)31日(にち)
関町立関中学校加太校舎(せきちょうりつせきちゅうがっこうかぶとこうしゃ)は廃校(はいこう)となり、昭和(しょうわ)38年(ねん)(1963年)(ねん)1月(がつ)1日(ついたち)に、関町立関中学校(せきちょうりつせきちゅうがっこう)にうつりました。
昭和(しょうわ)46年(ねん)(1971年)(ねん)3月(がつ)31日(にち)
関町立加太小学校越川分校(せきちょうりつかぶとしょうがっこうえちがわぶんこう)が廃校(はいこう)となりました。
平成17年(ねん)(2005年)(ねん)1月(がつ)17日(にち)
関町(せきちょう)と亀山市(かめやまし)が合併(がっぺい)して、新(あたら)しく亀山市(かめやまし)となりました。
関町立加太小学校(せきちょうりつかぶとしょうがっこう)は、亀山市立加太小学校(かめやましりつかぶとしょうがっこう)と名前(なまえ)がかわりました。