亀山こども歴史館トップページ 学校(がっこう)のあゆみ(せき)小学校(しょうがっこう)のれきし

[学校(がっこう)のあゆみ]わたしたちが通(かよ)っている学校(がっこう)は、明治時代(めいじじだい)にできましたよ。でも市域(しいき)の学校(がっこう)の歴史(れきし)を調(しら)べると、なんと、江戸時代(えどじだい)にもあったことがわかりました。では、江戸時代(えどじだい)や明治時代(めいじじだい)からの学校(がっこう)ってどんなようすだったんでしょうか。

(せき)小学校(しょうがっこう)のれきし


クリックで大きく表示します

明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん))9月(がつ)2日(か)
文部省(もんぶしょう)ができました。いまの文部科学省(もんぶかがくしょう)になる前(まえ)の省庁(しょうちょう)です。

明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))8月(がつ)2日(か)
国民(こくみん)みんなが学校(がっこう)で学(まな)ぶことを目指(めざ)した「学制」(がくせい)を文部省(もんぶしょう)が出(だ)しました。

学制(がくせい)によって、全国(ぜんこく)の学区(がっく)は、8大学区(だいがくく)にわけられ、一つの大学区(だいがくく)に大学(だいがく)を一つ置(お)くことになりました。
三重県(みえけん)は、他(ほか)の6県(けん)とともに第2大学区(だいにだいがくく)になりました。
一つの大学区(だいがくく)は、32中学区(ちゅうがくく)にわけられ、1中学区(ちゅうがくく)に中学校(ちゅうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
一つの中学区(ちゅうがくく)は、210小学区(しょうがくく)にわけられ、1小学区(しょうがくく)に小学校(しょうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
したがって、全国(ぜんこく)では大学(だいがく)8校(こう)、中学校(ちゅうがっこう)210校(こう)、小学校(しょうがっこう)53,760校(こう)を置(お)くことになりました。

「学制」(がくせい)では、尋常小学(じんじょうしょうがっこう)を下等小学(かとうしょうがく)と上等小学(じょうとうしょうがく)の教科(きょうか)にわけました。
尋常小学(じんじょうしょうがく)の教科(きょうか)は、男女(だんじょ)とも必(かなら)ず卒業(そつぎょう)しなければならない決(き)まりとしました。
下等小学(かとうしょうがく)は、6歳(さい)から9歳(さい)まで、上等小学(じょうとうしょうがく)は10歳(さい)から13歳(さい)までに卒業(そつぎょう)する決(き)まりとしました。

明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))12月(がつ)3日(か)
この日(ひ)から新暦(しんれき)となり、明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん)(ねん)12月(がつ)3日(か)が、明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))1月(がつ)1日(ついたち)になりました。

明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))2月(がつ)
関町(せきちょう)の費用(ひよう)で、鈴関学校(れいかんがっこう)ができました。
修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、下等小学(かとうしょうがく)4年間(ねんかん)、高等小学(こうとうしょうがく)4年間(ねんかん)です。
鈴関学校(れいかんがっこう)の校舎(こうしゃ)は、関町(せきちょう)に前(まえ)からあった有恒舎(ゆうこうしゃ)という名前(なまえ)の家(いえ)を使(つか)いました。


関町大字木崎字御茶屋(せきちょうおおあざこざきあざおちゃや)431番地(ばんち)に、引越(ひっこ)しました。


明治(めいじ)12年(ねん)(1879年(ねん))9月(がつ)29日(にち)
文部省(もんぶしょう)は、「学制」(がくせい)を廃止(はいし)し、新(あら)たに教育令(きょういくれい)を出(だ)しました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年(ねん)(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
また8年間(ねんかん)の内(ない)、少(すく)なくとも16ヵ月(かげつ)は小学校(しょうがっこう)の教育(きょういく)を受(う)ける決(き)まりとしました。


明治(めいじ)13年(ねん)(1880年(ねん))2月(がつ)28日(にち)
教育令(きょういくれい)が改正(かいせい)されました。これは改正教育令(かいせいきょういくれい)といわれました。

明治(めいじ)14年(ねん)(1881年(ねん))5月(がつ)4日(か)
改正教育令(かいせいきょういくれい)が出(だ)されたことを受(う)けて、小学科(しょうがくか)のわけ方(かた)が下等(かとう)、上等(じょうとう)の二等(にとう)から、初等(しょとう)、中等(ちゅうとう)、高等(こうとう)の三等(さんとう)にわかれました(小学校教則綱領(しょうがっこうきょうそくこうりょう))。
小学校(しょうがっこう)の学期(がっき)は、初等科(しょとうか)が3年間(ねんかん)、中等科(ちゅうとうか)が3年間(ねんかん)、上等科(じょうとうか)が2年間(ねんかん)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。

明治(めいじ)15年(ねん)(1882年(ねん)
改正教育令(かいせいきょういくれい)を受(う)けて、鈴関学校(れいかんがっこう)は、下等(かとう)、上等(じょうとう)の小学科(しょうがくか)から、初等(しょとう)、中等(ちゅうとう)、上等(じょうとう)の小学科(しょうがくか)にわかれました。


明治(めいじ)16年(ねん)(1883年(ねん))9月(がつ)
学区(がっく)が改正(かいせい)され、神辺村大字小野(かんべむらおおあざおの)(小野町(おのちょう))にある崗野学校(おかのがっこう)、関町大字久我(せきちょうおおあざくが)(関町久我(せきちょうくが))にある久我学校(くががっこう)、関町大字古厩(せきちょうおおあざふるまや)(関町古厩(せきちょうふるまや))にある古厩学校(ふるまやがっこう)と鈴関学校(れいかんがっこう)が一つになり、鈴関学校(れいかんがっこう)となりました。


明治(めいじ)19年(ねん)(1886年(ねん))4月(がつ)9日(か)
(あら)たに小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校令(しょうがっこうれい)では、小学校(しょうがっこう)が、尋常科(じんじょうか)と高等科(こうとうか)の二等(にとう)にわけられました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
保護者(ほごしゃ)には、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)の子供(こども)に対(たい)し、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)わせる義務(ぎむ)を負(お)う決(き)まりとしました。
(むら)や町(まち)の状況(じょうきょう)によって、尋常小学科(じんじょうしょうがくか)のかわりに、自費(じひ)で小学簡易科(しょうがくかんいか)を置(お)くことをみとめました。

明治(めいじ)19年(ねん)(1886年(ねん))5月(がつ)25日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けた決(き)まりによって、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、4年間(ねんかん)となりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)も、4年間(ねんかん)となりまた。

明治(めいじ)20年(ねん)(1887年(ねん))4月(がつ)
小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けて、鈴関学校(れいかんがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)4年間(ねんかん)の尋常科(じんじょうか)のある学校(がっこう)となりました。
同時(どうじ)に、修業年限(しゅうぎょうねんげん)を2年間(ねんかん)とする温習科(おんしゅうか)を置(お)きました。
尋常科(じんじょうか)を置(お)いたので、鈴関学校(れいかんがっこう)は、「鈴」(れい)の一文字(ひともじ)を取(と)って、関尋常小学校(せきじんじょうしょうがっこう)と名前(なまえ)を変(か)えました。
また、関尋常小学校(せきじんじょうしょうがっこう)の中(なか)に、関簡易科授業所(せきかんいかじゅぎょうしょ)を置(お)きました。


明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))10月(がつ)7日(か)
(あたら)しく小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)にわけられました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。 高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。
学校(がっこう)で学(まな)ぶ年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)と決(き)まりました。
保護者(ほごしゃ)は、児童(じどう)が尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)を終(お)わらない間(あいだ)は、学校教育(がっこうきょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)があることを定(さだ)めました。


明治(めいじ)24年(ねん)(1891年(ねん))5月(がつ)
関簡易科授業所(せきかんいかじゅぎょうじょ)をやめて、関尋常小学校(せきじんじょうしょうがっこう)に合(あ)わさりました。

明治(めいじ)25年(ねん)(1892年(ねん))11月(がつ)
鈴鹿郡町村聯合会(すずかぐんちょうそんそうごうかい)という会(かい)で、鈴鹿郡町村立高等小学校第一分教場(すずかぐんちょうそんりつこうとうしょうがっこうだいいちぶんきょうじょう)を関尋常小学校内(せきじんじょうしょうがっこうない)に置(お)くことを決(き)め、三重県知事(みえけんちじ)が認(みと)めました。
鈴鹿郡町村立高等小学校第一分教場(すずかぐんちょうそんりつこうとうしょうがっこうだいいちぶんきょうじょう)では、高等科(こうとうか)3年(ねん)までの内容(ないよう)を教(おし)えました。
鈴鹿郡町村立高等小学校第一分教場(すずかぐんちょうそんりつこうとうしょうがっこうだいいちぶんきょうじょう)を置(お)くことになったので、温習科(おんしゅうか)はなくなりました。
関尋常小学校(せきじんじょうしょうがっこう)は、鈴関尋常小学校(れいかんじんじょうしょうがっこう)と名前(なまえ)を変(か)えました。


明治(めいじ)29年(ねん)(1896年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
鈴鹿郡町村立高等小学校第一分教場(すずかぐんちょうそんりつこうとうしょうがっこうだいいちぶんきょうじょう)は、廃止(はいし)になりました。

明治(めいじ)29年(ねん)(1896年(ねん))4月(がつ)1日(にち)
鈴関尋常小学校(れいかんじんじょうしょうがっこう)に高等科(こうとうか)を置(お)きました。
これにより、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)と名前(なまえ)が変(か)わりました。


明治(めいじ)33年(ねん)(1900年(ねん))8月(がつ)20日(にち)
明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))の小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)されました。
小学校(しょうがっこう)は、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)としました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)の教科(きょうか)を一つの小学校(しょうがっこう)で行(おこな)う学校(がっこう)は、尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)としました。尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は4年間(ねんかん)とし、高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)、または4年間(ねんかん)としました。
(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)にいたる8年間(ねんかん)を学齢(がくれい)と決(き)めました。
保護者(ほごしゃ)は入学(にゅうがく)の始(はじ)めより、卒業(そつぎょう)まで学齢児童(がくれいじどう)に学校(がっこう)で教育(きょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)を負(お)うことが決(き)められました。


明治(めいじ)40年(ねん)(1907年(ねん))3月(がつ)20日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を改正(かいせい)しました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)が4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)になりました。
義務教育(ぎむきょういく)が、4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)にかわりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)になりました。ただし、3年間(ねんかん)にのばすことができました。


明治(めいじ)41年(ねん)(1908年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
加太尋常高等小学校(かぶとじんじょうこうとうしょうがっこう)に高等科(こうとうか)が置(お)かれたので、加太村(かぶとむら)の高等科(こうとうか)の児童(じどう)が鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科(こうとうか)に通(かよ)うことをやめました。
ただ、加太村越川(かぶとむらえちがわ)と加太村金場(かぶとむらかねば)の高等科児童(こうとうかじどう)は、これまで通(どお)り、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科(こうとうか)に通(かよ)いました。


尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の義務教育(ぎむきょういく)が4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)にかわったので、坂下尋常高等小学校(さかしたじんじょうこうとうしょうがっこう)の尋常科(じんじょうか)に、5学年(がくねん)、6学年(がくねん)を置(お)くことになりました。
鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)で受(う)け入(い)れていた、坂下村坂下(さかしたむらさかした)と坂下村沓掛(さかしたむらくつかけ)の高等科(こうとうか)1年生(ねんせい)と2年生(ねんせい)は、坂下尋常高等小学校(さかしたじんじょうこうとうしょうがっこう)に通(かよ)いました。
坂下村市ノ瀬(さかしたむらいちのせ)の高等科(こうとうか)1年生(ねんせい)と2年生(ねんせい)は、いままで通(どお)り、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)に通(かよ)いました。


明治(めいじ)42年(ねん)(1909年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
神辺尋常小学校(かんべじんじょうしょうがっこう)に高等科(こうとうか)ができたので、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科(こうとうか)に通(かよ)っていた神辺村(かんべむら)の児童(じどう)は、神辺尋常高等小学校(かんべじんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科(こうとうか)に通(かよ)いました。
ただし、神辺村会下(かんべむらえげ)の尋常科(じんじょうか)1年生(ねんせい)と2年生(ねんせい)は、これまでどおり、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)に通(かよ)いました。



関萬古 創業者 三谷耕一(せきばんこ 
そうぎょうしゃ みたにこういち)
さんが
大正(たいしょう)8年(ねん)に寄附(きふ)
した顕微鏡(けんびきょう)

大正(たいしょう)8年(ねん)(1919年(ねん))10月(がつ)1日(ついたち)
鈴関尋常高等小学校内(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこうない)に、関町立実業補修学校(せきちょうりつじつぎょうほしゅうがっこう)を加(くわ)えました。

大正(たいしょう)9年(ねん)(1920年(ねん))5月(がつ)13日(にち)
鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科(こうとうか)1年生(ねんせい)の児童(じどう)の人数(にんずう)が教室(きょうしつ)に入(はい)りきらなくなったので、尋常科(じんじょうか)1年生(ねんせい)に2部(ぶ)教授(きょうじゅ)し、その内(うち)、一(ひと)つの教室(きょうしつ)を利用(りよう)することを始(はじ)めました。


大正(たいしょう)9年(ねん)(1920年(ねん))7月(がつ)10日(か)
鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)に家事科(かじか)を加(くわ)えました。


関尋常小学校(せきじんじょうしょうがっこう)
授業風景(じゅぎょうふうけい)


学芸会(がくげいかい)のようす


昭和(しょうわ)4年(ねん)の運動会(うんどうかい)
のようす

大正(たいしょう)10年(ねん)(1921年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
これまで、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)の尋常科(じんじょうか)に通(かよ)っていた関町久我(せきちょうくが)の1年生(ねんせい)と2年生(ねんせい)は、加太尋常高等小学校越川分教場(かぶとじんじょうこうとうしょうがっこうえちがわぶんきょうじょう)に通(かよ)うことになりました。
加太村(かぶとむら)の越川(えちがわ)と金場(かねば)の尋常科(じんじょうか)3年生以上(ねんせいいじょう)の児童(じどう)は、鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)に通(かよ)うことになりました。

大正(たいしょう)14年(ねん)(1925年(ねん))3月(がつ)16日(にち)
鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)は、鈴鹿郡関町大字木崎(すずかぐんせきちょうおおあざこざき)793番(ばん)(字北野地内(あざきたのちない))へ引(ひ)っ越(こ)すことが決(き)まりました。


昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年(ねん))3月(がつ)1日(ついたち)
小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)され、国民学校令(こくみんがっこうれい)が出(だ)されました。
国民学校(こくみんがっこう)の教科(きょうか)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)の二つを置(お)くことが決(き)められました。
ただし地域(ちいき)の状況(じょうきょう)によっては、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)を置(お)くことができました。
初等科(しょとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、6年間(ねんかん)、高等科(こうとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)となりました。
国民学校(こくみんがっこう)には、高等科(こうとうか)を修了(しゅうりょう)した児童(じどう)のために、特修科(とくしゅうか)を置(お)くことができました。その修業年限(しゅうぎょうねんげん)は1年間(ねんかん)としました。
(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)を義務教育(ぎむきょういく)としました。 これまでの尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの高等小学校(こうとうしょうがっこう)は、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)を置(お)く国民学校(こくみんがっこう)となりました。

昭和(しょうわ)13年(ねん)(1941年(ねん))3月(がつ)31日(ついたち)
坂下村市ノ瀬の高等科1学年生と2年生が、坂下尋常高等小学校に通に通うことになりました。


昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
鈴関尋常高等小学校(れいかんじんじょうこうとうしょうがっこう)は、関町国民学校(せきちょうこくみんがっこう)となりました。


鉄筋(てっきん)の校舎(こうしゃ)になるまえの
木造校舎(もくぞうこうしゃ)と人文字(ひともじ)

昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))3月(がつ)29日(にち)
学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されました。
学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく小学校(しょうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、6年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)12歳(さい)までとなりました。

学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく中学校(ちゅうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
中学校(ちゅうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、3年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
中学校(ちゅうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、小学校(しょうがっこう)を卒業(そつぎょう)した年(とし)から満(まん)15歳(さい)までとなりました。

学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されたことにより、これまでの国民学校(こくみんがっこう)は、小学校(しょうがっこう)とみなすことになりました。

昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
関町国民学校(せきちょうこくみんがっこう)は、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)となりました。
(あたら)しく鈴関中学校(れいかんちゅうがっこう)が、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)にできました。

昭和(しょうわ)23年(ねん)(1948年(ねん))7月(がつ)15日(にち)
関町(せきちょう)・神辺村(かんべむら)・白川村(しらかわむら)・坂下村(さかしたむら)・加太村(かぶとむら)による関町外四ヶ村学校組合立西部中学校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)ができました。
関町外四ヶ村学校組合立西部中学校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)は、神辺小学校に置くことになったので、鈴関中学校(れいかんちゅうがっこう)は、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)から出(で)て行(ゆ)きました。
加太村立加太中学校(かぶとそんりつかぶとちゅうがっこう)は、関町外四ヶ村学校組合立西部中学校加太分校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこうかぶとぶんこう)となりました。

昭和(しょうわ)24年(ねん)(1949年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
関町外四ヶ村学校組合立西部中学校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)は、しばらくの間、関町立関小学校に置かれることになりました。


昭和(しょうわ)26年(ねん)(1951年(ねん)(ねん)8月(がつ)31日(にち)
関町外四ヶ村学校組合立西部中学校(せきちょうほかよんかそんがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)が設置(せっち)されたため、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)から引越(ひっこ)しました。


昭和(しょうわ)30年(ねん)(1955年(ねん))2月(がつ)1日(ついたち)
関町(せきちょう)、神辺村(かんべむら)の町小野(まちおの)と会下(えげ)、白川村(しらかわむら)の鷲山(わしやま)と白木一色(しらきいっしき)とが合併(がっぺい)して、新(あたら)しく関町(せきちょう)となりました。

昭和(しょうわ)30年(ねん)(1955年(ねん)(ねん)4月(がつ)17日(にち)
関町(せきちょう)と加太村(かぶとむら)、坂下村(さかしたむら)が合併(がっぺい)して、新(あたら)しく関町(せきちょう)となりました。


昭和(しょうわ)31年(ねん)(1956年(ねん))5月(がつ)29日(にち)
関町立加太小学校越川分校(せきちょうりつかぶとしょうがっこうえちがわぶんこう)ができました。

昭和(しょうわ)32年(ねん)(1957年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
芸濃町立明小学校福徳分教場(げいのうちょうりつあきらしょうがっこうふくとくぶんきょうじょう)が廃止(はいし)となりました。

昭和(しょうわ)32年(ねん)(1957年(ねん))4月(がつ)
芸濃町萩原(げいのうちょうはぎわら)と福徳(ふくとく)の児童(じどう)と生徒(せいと)が、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)と鈴鹿郡関町亀山市学校組合立西部中学校(すずかぐんせきちょうかめやましがっこうくみあいりつせいぶちゅうがっこう)に通(かよ)いました。

昭和(しょうわ)33年(ねん)(1958年(ねん))4月(がつ)1日(にち)
芸濃町萩原(げいのうちょうはぎわら)と福徳(ふくとく)が、関町(せきちょう)に合併(がっぺい)されました。

昭和(しょうわ)46年(ねん)(1971年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
関町立加太小学校越川分校(せきちょうりつかぶとしょうがっこうえちがわぶんこう)が廃校(はいこう)となりました。
関町越川(せきちょうえちがわ)と関町金場(せきちょうかねば)の1年生(ねんせい)から3年生(ねんせい)は、関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)に通(かよ)うことになりました。

昭和(しょうわ)54年(ねん)(1979年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
関町立坂下小学校(せきちょうりつさかしたしょうがっこう)が廃校(はいこう)となり、関小学校(せきしょうがっこう)にひきつがれました。

平成17年(ねん)(2005年(ねん))1月(がつ)17日(にち)
関町(せきちょう)と亀山市(かめやまし)が合併(がっぺい)して、新(あたら)しく亀山市(かめやまし)となりました。 関町立関小学校(せきちょうりつせきしょうがっこう)は、亀山市立関小学校(かめやましりつせきしょうがっこう)と名前(なまえ)がかわりました。

ページの先頭(せんとう)に戻(もど)る
  • 亀山市歴史博物館(かめやましれきしはくぶつかん)
  • 亀山市史(かめやましし)
  • 亀山市(かめやまし)ホームページ
  • 日本博物館協会(にほんはくぶつかんきょうかい)
  • 三重県博物館協会(みえけんはくぶつかんきょうかい)