亀山城主(かめやまじょうしゅ)石川家(いしかわけ)と家来(けらい)の学校(がっこう)
天明(てんめい)5(1785)年(ねん)に、亀山藩(かめやまはん)が南崎町(みなみざきちょう)の家(いえ)を読書場(どくしょじょう)にしました。ここで亀山城(かめやまじょう)の家臣(かしん)は教育(きょういく)を受(う)けていました。
この読書場(どくしょじょう)を藩校(はんこう)(亀山藩(かめやまはん)の学校(がっこう))とし、明倫舎(めいりんしゃ)と名付(なづ)けました。
ちなみに、殿様(とのさま)が明倫舎(めいりんしゃ)を見(み)に行(い)きたいと言(い)った時(とき)に、詳(くわ)しい理由(りゆう)は分(わ)かりませんが、家臣(かしん)は「殿様(とのさま)の行(い)くような場所(ばしょ)ではありません」と反対(はんたい)されています。
明倫舎(めいりんしゃ)は明治(めいじ)2(1869)年(ねん)に組織(そしき)が変(か)わって「明倫館(めいりんかん)」となります。
明倫舎(めいりんしゃ)で使(つか)われていた本(ほん)(日本外史(にほんがいし))
本(ほん)に押(お)された明倫舎(めいりんしゃ)のはんこ