亀山こども歴史館トップページ 学校(がっこう)のあゆみ亀山西(かめやまにし)小学校(しょうがっこう)のれきし

[学校(がっこう)のあゆみ]わたしたちが通(かよ)っている学校(がっこう)は、明治時代(めいじじだい)にできましたよ。でも市域(しいき)の学校(がっこう)の歴史(れきし)を調(しら)べると、なんと、江戸時代(えどじだい)にもあったことがわかりました。では、江戸時代(えどじだい)や明治時代(めいじじだい)からの学校(がっこう)ってどんなようすだったんでしょうか。

亀山西(かめやまにし)小学校(しょうがっこう)のれきし


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江戸時代(えどじだい)に亀山城主(かめやまじょうしゅ)であった大名石川家(だいみょういしかわけ)の家来(けらい)が、自分(じぶん)たちが勉強(べんきょう)するため、南崎(みなみざき)(南崎町(みなみざきちょう))に読書場(どくしょじょう)を建(た)て、明倫舎(めいりんしゃ)と名前(なまえ)をつけました。
明倫舎(めいりんしゃ)は、南崎(みなみざき)から亀山城内(かめやまじょうない)の西之丸(にしのまる)へ移転(いてん)しました。
慶応(けいおう)3年(ねん)(1867年(ねん))武士(ぶし)が世(よ)の中(なか)を治(おさ)める時代(じだい)が終(お)わり、明治元年(めいじがんねん)(1868年(ねん))に、明治政府(めいじせいふ)による世(よ)の中(なか)が始(はじ)まりました。
明治(めいじ)2年(ねん)(1869年(ねん))6月(がつ)に、明治政府(めいじせいふ)による亀山地方(かめやまちほう)の行政機関(ぎょうせいきかん)として亀山藩(かめやまはん)ができました。
明治(めいじ)2年(ねん)(1869年(ねん))10月(がつ)に、明倫舎(めいりんしゃ)の教育制度(きょういくせいど)を改(あらた)めて、誰(だれ)でもが勉強(べんきょう)できる学校(がっこう)とし、明倫館(めいりんかん)と名前(なまえ)も変(か)えました。
明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん))7月(がつ)に、明治政府(めいじせいふ)は、藩(はん)をやめて県(けん)を置(お)きました。これによって亀山藩(かめやまはん)による明倫館(めいりんかん)はなくなりました。

明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん))9月(がつ)2日(か)
文部省(もんぶしょう)ができました。いまの文部科学省(もんぶかがくしょう)になる前(まえ)の省庁(しょうちょう)です。

明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))8月(がつ)2日(か)
国民(こくみん)みんなが学校(がっこう)で学(まな)ぶことを目指(めざ)した「学制」(がくせい)を文部省(もんぶしょう)が出(だ)しました。

学制(がくせい)によって、全国(ぜんこく)の学区(がっく)は、8大学区(だいがくく)にわけられ、一つの大学区(だいがくく)に大学(だいがく)を一つ置(お)くことになりました。
三重県(みえけん)は、他(ほか)の6県(けん)とともに第2大学区(だいにだいがくく)になりました。
一つの大学区(だいがくく)は、32中学区(ちゅうがくく)にわけられ、1中学区(ちゅうがくく)に中学校(ちゅうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
一つの中学区(ちゅうがくく)は、210小学区(しょうがくく)にわけられ、1小学区(しょうがくく)に小学校(しょうがっこう)を一つ置(お)くことになりました。
したがって、全国(ぜんこく)では大学(だいがく)8校(こう)、中学校(ちゅうがっこう)210校(こう)、小学校(しょうがっこう)53,760校(こう)を置(お)くことになりました。

「学制」(がくせい)では、尋常小学(じんじょうしょうがっこう)を下等小学(かとうしょうがく)と上等小学(じょうとうしょうがく)の教科(きょうか)にわけました。
尋常小学(じんじょうしょうがく)の教科(きょうか)は、男女(だんじょ)とも必(かなら)ず卒業(そつぎょう)しなければならない決(き)まりとしました。
下等小学(かとうしょうがく)は、6歳(さい)から9歳(さい)まで、上等小学(じょうとうしょうがく)は10歳(さい)から13歳(さい)までに卒業(そつぎょう)する決(き)まりとしました。

明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))12月(がつ)3日(か)
この日(ひ)から新暦(しんれき)となり、明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん)(ねん)12月(がつ)3日(か)が、明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))1月(がつ)1日(ついたち)になりました。

明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))2月(がつ)
亀山町(かめやまちょう)(亀山中学校(かめやまちゅうがっこう)の場所(ばしょ))に、亀山学校(かめやまがっこう)ができました。明治(めいじ)5年(ねん)(1872年(ねん))に出(だ)された学制(がくせい)にしたがい、江戸時代(えどじだい)に亀山藩(かめやまはん)がつくった明倫館(めいりんかん)を生(い)かした尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)でした。
亀山学校(かめやまがっこう)には、江ケ室(えがむろ)など14の町(まち)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
下等(かとう)4年間(ねんかん)、上等(じょうとう)4年間(ねんかん)、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)8年(ねん)(1875年(ねん))4月(がつ)
東町学校(ひがしまちがっこう)ができました。東町(ひがしまち)の民家(みんか)(東町(ひがしまち)の市民(しみん)のショップねこの館(やかた)の場所(ばしょ)あたり)を仮校舎(かりこうしゃ)にしました。亀山東町(かめやまひがしまち)と亀山西町(かめやまにしまち)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
下等(かとう)4年間(ねんかん)、上等(じょうとう)4年間(ねんかん)、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)8年(ねん)6月(がつ)
阿野田村(あのだむら)(阿野田町(あのだちょう))の正覚寺(しょうかくじ)に、阿野田学校(あのだがっこう)ができました。阿野田村(あのだむら)・菅内村(すがうちむら)・八野村(はちのむら)の3つの村(むら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)9年(ねん)(1876年(ねん)
東町学校(ひがしまちがっこう)は、亀街学校(きがいがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。学校(がっこう)の場所(ばしょ)も、亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)の場所(ばしょ)に移(うつ)りました。
亀田学校(かめだがっこう)ができました。亀田(かめだ)(亀田町(かめだちょう))の民家(みんか)を仮校舎(かりこうしゃ)にしました。椿世村(つばいそむら)・亀田村(かめだむら)・羽若村(はわかむら)・住山村(すみやまむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
下等(かとう)4年間(ねんかん)、上等(じょうとう)4年間(ねんかん)、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)9年(ねん)4月(がつ)
野村学校(のむらがっこう)ができました。野村(のむら)(野村(のむら))の永信寺(えいしんじ)を仮校舎(かりこうしゃ)にしました。野村(のむら)・南野村(みなみのむら)・北野村(きたのむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。

明治(めいじ)9年(ねん)6月(がつ)
安知本学校(あちもとがっこう)ができました。郷蔵(ごうぐら)を直(なお)して校舎(こうしゃ)にしました。安知本村(あちもとむら)・田茂村(たもむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
※郷蔵(ごうぐら):村(むら)で取(と)れた米(こめ)を置(お)いておいた倉庫(そうこ)
下等(かとう)4年間(ねんかん)、上等(じょうとう)4年間(ねんかん)、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)10年(ねん)(1877年(ねん)
東町学校(ひがしまちがっこう)から分(わ)かれて、同(おな)じ場所(ばしょ)(東町(ひがしまち)の市民(しみん)のショップねこの館(やかた)の場所(ばしょ)あたり)に新(あたら)しく東内学校(とうないがっこう)ができました。
下等(かとう)4年間(ねんかん)、上等(じょうとう)4年間(ねんかん)、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)10年(ねん)12月(がつ)
阿野田学校(あのだがっこう)が、郷蔵(ごうぐら)を直(なお)して新(あたら)しい校舎(こうしゃ)としました。そして、新(あたら)しい校舎(こうしゃ)へ移(うつ)りました。

明治(めいじ)12年(ねん)(1879年(ねん))9月(がつ)29日(にち)
文部省(もんぶしょう)は、「学制」(がくせい)を廃止(はいし)し、新(あら)たに教育令(きょういくれい)を出(だ)しました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年(ねん)(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
また8年間(ねんかん)の内(ない)、少(すく)なくとも16ヵ月(かげつ)は小学校(しょうがっこう)の教育(きょういく)を受(う)ける決(き)まりとしました。


明治(めいじ)13年(ねん)(1880年(ねん))2月(がつ)28日(にち)
教育令(きょういくれい)が改正(かいせい)されました。これは改正教育令(かいせいきょういくれい)といわれました。

明治(めいじ)14年(ねん)(1881年(ねん))5月(がつ)4日(か)
改正教育令(かいせいきょういくれい)が出(だ)されたことを受(う)けて、小学科(しょうがくか)のわけ方(かた)が下等(かとう)、上等(じょうとう)の二等(にとう)から、初等(しょとう)、中等(ちゅうとう)、高等(こうとう)の三等(さんとう)にわかれました(小学校教則綱領(しょうがっこうきょうそくこうりょう))。
小学校(しょうがっこう)の学期(がっき)は、初等科(しょとうか)が3年間(ねんかん)、中等科(ちゅうとうか)が3年間(ねんかん)、上等科(じょうとうか)が2年間(ねんかん)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。

明治(めいじ)15年(ねん)(1882年(ねん)
亀山学校(かめやまがっこう)と亀街学校(きがいがっこう)が一緒(いっしょ)になりました。学校(がっこう)の名前(なまえ)も、友徳学校(ゆうとくがっこう)に変(か)わりました。校舎(こうしゃ)の場所(ばしょ)も、江ケ室(えがむろ)(江ケ室町(えがむろちょう))の民家(みんか)に移(うつ)りました。
2つの分教室(ぶんきょうしつ)をつくりました。ひとつは、亀街学校(きがいがっこう)の校舎(こうしゃ)です。もうひとつは、東内学校(とうないがっこう)の校舎(こうしゃ)です。そのため、東内学校(とうないがっこう)はやめました。
友徳学校(ゆうとくがっこう)は、初等科(しょとうか)・中等科(ちゅうとうか)・高等科(こうとうか)があり、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。
阿野田学校(あのだがっこう)の学(まな)ぶ期間(きかん)が、小学初等科(しょうがくしょとうか)3年間(ねんかん)、小学中等科(しょうがくちゅうとうか)3年間(ねんかん)、あわせて6年間(ねんかん)に変(か)わりました。

明治(めいじ)16年(ねん)(1883年(ねん)
友徳学校(ゆうとくがっこう)の分校(ぶんこう)が2つできました。ひとつは、亀田学校(かめだがっこう)をやめて、分校(ぶんこう)にしました。もうひとつは、野村学校(のむらがっこう)をやめて、南野村(みなみのむら)(南野町(みなみのちょう))に南野村分校(みなみのむらぶんこう)をつくりました。南野村(みなみのむら)・北野村(きたのむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。
野村学校(のむらがっこう)の一部(いちぶ)と布気学校(ふけがっこう)が一緒(いっしょ)になりました。学校(がっこう)の名前(なまえ)も、修道学校(しゅうどうがっこう)に変(か)わりました。布気村(ふけむら)(布気町(ふけちょう))の寺(てら)を仮校舎(かりこうしゃ)にしました。ここは、明治(めいじ)9年(ねん)(1876年(ねん))にできた布気学校(ふけがっこう)の仮校舎(かりこうしゃ)として使(つか)われていました。野村(のむら)の子(こ)どもたちは、修道学校(しゅうどうがっこう)に通(かよ)いました。
修道学校(しゅうどうがっこう)は、初等科(しょとうか)・中等科(ちゅうとうか)・高等科(こうとうか)があり、あわせて8年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)16年(ねん)2月(がつ)
安知本学校(あちもとがっこう)・阿野田学校(あのだがっこう)が一緒(いっしょ)になりました。学校(がっこう)の名前(なまえ)も、養蒙学校(ようもうがっこう)に変(か)わりました。阿野田村(あのだむら)・菅内村(すがうちむら)・八野村(はちのむら)・安知本村(あちもとむら)・田茂村(たもむら)・和賀村(わがむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。安知本村(あちもとむら)(安知本町(あちもとちょう))と菅内村(すがうちむら)(菅内町(すがうちちょう))に分教場(ぶんきょうじょう)をつくりました。
小学初等科(しょうがくしょとうか)・小学中等科(しょうがくちゅうとうか)、あわせて6年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)17年(ねん)(1884年(ねん)
友徳学校(ゆうとくがっこう)の分校(ぶんこう)が新(あたら)しくできました。住山村(すみやまむら)(住山町(すみやまちょう))の太巖寺(たいがんじ)を仮校舎(かりこうしゃ)にした、住山分校(すみやまぶんこう)ができました。
友徳学校(ゆうとくがっこう)の分校(ぶんこう)だった亀田分校(かめだぶんこう)をやめました。

明治(めいじ)18年(ねん)(1885年(ねん)
友徳学校(ゆうとくがっこう)の分校(ぶんこう)だった南野村分校(のむらぶんこう)をやめました。

明治(めいじ)19年(ねん)(1886年(ねん))4月(がつ)9日(か)
(あら)たに小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校令(しょうがっこうれい)では、小学校(しょうがっこう)が、尋常科(じんじょうか)と高等科(こうとうか)の二等(にとう)にわけられました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、6歳(さい)から14歳(さい)までの8年間(ねんかん)としました。
保護者(ほごしゃ)には、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)の子供(こども)に対(たい)し、小学校(しょうがっこう)に通(かよ)わせる義務(ぎむ)を負(お)う決(き)まりとしました。
(むら)や町(まち)の状況(じょうきょう)によって、尋常小学科(じんじょうしょうがくか)のかわりに、自費(じひ)で小学簡易科(しょうがくかんいか)を置(お)くことをみとめました。

明治(めいじ)19年(ねん)(1886年(ねん))5月(がつ)25日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を受(う)けた決(き)まりによって、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、4年間(ねんかん)となりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)も、4年間(ねんかん)となりまた。

明治(めいじ)20年(ねん)(1887年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
養蒙学校(ようもうがっこう)をやめました。安知本村(あちもとむら)(安知本町(あちもとちょう))と菅内村(すがうちむら)(菅内町(すがうちちょう))にあった分教場(ぶんきょうじょう)もやめました。

明治(めいじ)20年(ねん)4月(がつ)
友徳学校(ゆうとくがっこう)の名前(なまえ)が、亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)に変(か)わりました。校舎(こうしゃ)も新(あたら)しく建(た)て、亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)の場所(ばしょ)に移(うつ)りました。全(すべ)ての分校(ぶんこう)をやめました。
亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)では、4年間(ねんかん)(まな)びました。
亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)の中(なか)に、亀山小学簡易科授業所(かめやましょうがくかんいかじゅぎょうしょ)をつくりました。
亀山小学簡易科授業所(かめやましょうがくかんいかじゅぎょうしょ)では、3年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)20年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
阿野田簡易科授業所(あのだかんいかじゅぎょうしょ)ができました。阿野田村(あのだむら)・菅内村(すがうちむら)・田茂村(たもむら)・安知本村(あちもとむら)・和賀村(わがむら)の子(こ)どもたちが通(かよ)いました。3年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)20年(ねん)5月(がつ)
修道学校(しゅうどうがっこう)の校区(こうく)から、野村(のむら)が分(わ)かれました。野村(のむら)の子(こ)どもたちは、修道学校(しゅうどうがっこう)から亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)へ通(かよ)う学校(がっこう)を変(か)えました。

明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))3月(がつ)
亀山小学簡易科授業所(かめやましょうがくかんいかじゅぎょうしょ)をやめました。

明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))10月(がつ)7日(か)
(あたら)しく小学校令(しょうがっこうれい)が出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)にわけられました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。 高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)または4年間(ねんかん)となりました。
学校(がっこう)で学(まな)ぶ年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)と決(き)まりました。
保護者(ほごしゃ)は、児童(じどう)が尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)を終(お)わらない間(あいだ)は、学校教育(がっこうきょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)があることを定(さだ)めました。

明治(めいじ)24年(ねん)(1891年(ねん))4月(がつ)13日(にち)
阿野田簡易科授業所(あのだかんいかじゅぎょうしょ)をやめました。そして、槙尾尋常小学校(まきおじんじょうしょうがっこう)をつくりました。
尋常科(じんじょうか)で4年間(ねんかん)(まな)びました。

明治(めいじ)33年(ねん)(1900年(ねん))8月(がつ)20日(にち)
明治(めいじ)23年(ねん)(1890年(ねん))の小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)されました。
小学校(しょうがっこう)は、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)としました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の教科(きょうか)と高等小学校(こうとうしょうがっこう)の教科(きょうか)を一つの小学校(しょうがっこう)で行(おこな)う学校(がっこう)は、尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)としました。尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は4年間(ねんかん)とし、高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は2年間(ねんかん)、3年間(ねんかん)、または4年間(ねんかん)としました。
(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)にいたる8年間(ねんかん)を学齢(がくれい)と決(き)めました。
保護者(ほごしゃ)は入学(にゅうがく)の始(はじ)めより、卒業(そつぎょう)まで学齢児童(がくれいじどう)に学校(がっこう)で教育(きょういく)を受(う)けさせる義務(ぎむ)を負(お)うことが決(き)められました。


明治(めいじ)40年(ねん)(1907年(ねん))3月(がつ)20日(にち)
小学校令(しょうがっこうれい)を改正(かいせい)しました。
尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)が4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)になりました。
義務教育(ぎむきょういく)が、4年間(ねんかん)から6年間(ねんかん)にかわりました。
高等小学校(こうとうしょうがっこう)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)になりました。ただし、3年間(ねんかん)にのばすことができました。

明治(めいじ)41年(ねん)(1908年(ねん))3月(がつ)31日(にち)
亀山町(かめやまちょう)と槙尾村(まきおむら)が一緒(いっしょ)になり、新(あたら)しい亀山町(かめやまちょう)ができました。そのため、槙尾尋常小学校(まきおじんじょうしょうがっこう)の名前(なまえ)が、亀山町立槙尾尋常小学校(かめやまちょうりつまきおじんじょうしょうがっこう)に変(か)わりました。

明治(めいじ)41年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
槙尾尋常小学校(まきおじんじょうしょうがっこう)が、亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)と一緒(いっしょ)になりました。槙尾尋常小学校(まきおじんじょうしょうがっこう)は、亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)の分教場(ぶんきょうじょう)になりました。分教場(ぶんきょうじょう)には、1年生(ねんせい)から4年生(ねんせい)が通(かよ)いました。

明治(めいじ)42年(ねん)(1909年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)に高等科(こうとうか)ができました。この学校(がっこう)には、女子(じょし)だけが通(かよ)いました。学校(がっこう)の名前(なまえ)も、鈴鹿郡亀山町立亀山女子尋常高等小学校(すずかぐんかめやまちょうりつかめやまじょしじんじょうこうとうしょうがっこう)に変(か)わりました。
亀山尋常小学校(かめやまじんじょうしょうがっこう)に通(かよ)っていた男子(だんし)は、鈴鹿郡町立亀山男子尋常高等小学校(すずかぐんかめやまちょうりつかめやまだんしじんじょうこうとうしょうがっこう)に通(かよ)うことになりました。この日(ひ)、鈴鹿郡亀山町外五ケ村学校組合高等小学校(すずかぐんかめやまちょうほかごかそんがっこうくみあいこうとうしょうがっこう)は、亀山男子尋常高等小学校(かめやまだんしじんじょうこうとうしょうがっこう)に名前(なまえ)が変(か)わりました。
亀山女子尋常高等小学校(かめやまじょしじんじょうこうとうしょうがっこう)も亀山男子尋常高等小学校(かめやまだんしじんじょうこうとうしょうがっこう)も、同(おな)じ場所(ばしょ)(亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)の場所(ばしょ))にありました。

明治(めいじ)42年(ねん)(1909年(ねん))9月(がつ)1日(ついたち)まで
槙尾村(まきおむら)(阿野田町(あのだちょう)・菅内町(すがうちちょう)・田茂町(たもちょう)・安知本町(あちもとちょう))の尋常科(じんじょうか)3年生(ねんせい)までは、槙尾分教場(まきおぶんきょうじょう)で授業(じゅぎょう)を受(う)けました。

明治(めいじ)43年(ねん)(1910年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
亀山女子尋常高等小学校(かめやまじょしじんじょうこうとうしょうがっこう)では、尋常科(じんじょうか)3年生(ねんせい)までの男子(だんし)も一緒(いっしょ)に学(まな)ぶことになりました。そのため、亀山女子尋常高等小学校(かめやまじょしじんじょうこうとうしょうがっこう)は、鈴鹿郡亀山町立亀山第二尋常高等小学校(すずかぐんかめやまちょうりつかめやまだいにじんじょうこうとうしょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。
あわせて、男子(だんし)が通(かよ)っていた亀山男子尋常高等小学校(かめやまだんしじんじょうこうとうしょうがっこう)も、鈴鹿郡亀山町立亀山第一尋常高等小学校(すずかぐんかめやまちょうりつかめやまだいいちじんじょうこうとうしょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。

明治(めいじ)45年(ねん)(1912年(ねん))4月(がつ)9日(ここのか)
亀山第一尋常高等小学校(かめやまだいいちじんじょうこうとうしょうがっこう)に、実業補習学校(じつぎょうほしゅうがっこう)をつくりました。

大正(たいしょう)6年(ねん)(1917年(ねん))6月(がつ)1日(ついたち)
亀山第一尋常高等小学校(かめやまだいいちじんじょうこうとうしょうがっこう)と亀山第二尋常高等小学校(かめやまだいにじんじょうこうとうしょうがっこう)vが一緒(いっしょ)になりました。学校(がっこう)の名前(なまえ)は、亀山尋常高等小学校(かめやまじんじょうこうとうしょうがっこう)となりました。

昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年(ねん))3月(がつ)1日(ついたち)
小学校令(しょうがっこうれい)が改正(かいせい)され、国民学校令(こくみんがっこうれい)が出(だ)されました。
国民学校(こくみんがっこう)の教科(きょうか)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)の二つを置(お)くことが決(き)められました。
ただし地域(ちいき)の状況(じょうきょう)によっては、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)を置(お)くことができました。
初等科(しょとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、6年間(ねんかん)、高等科(こうとうか)の修業年限(しゅうぎょうねんげん)は、2年間(ねんかん)となりました。
国民学校(こくみんがっこう)には、高等科(こうとうか)を修了(しゅうりょう)した児童(じどう)のために、特修科(とくしゅうか)を置(お)くことができました。その修業年限(しゅうぎょうねんげん)は1年間(ねんかん)としました。
(まん)6歳(さい)から満(まん)14歳(さい)までの8年間(ねんかん)を義務教育(ぎむきょういく)としました。 これまでの尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの高等小学校(こうとうしょうがっこう)は、高等科(こうとうか)だけの国民学校(こくみんがっこう)となりました。
これまでの尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)は、初等科(しょとうか)と高等科(こうとうか)を置(お)く国民学校(こくみんがっこう)となりました。

昭和(しょうわ)16年(ねん)(1941年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
亀山尋常高等小学校(かめやまじんじょうこうとうしょうがっこう)は、亀山町国民学校(かめやまちょうこくみんがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。
昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))3月(がつ)29日(にち)
学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されました。
学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく小学校(しょうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
小学校(しょうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、6年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
小学校(しょうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、満(まん)6歳(さい)から満(まん)12歳(さい)までとなりました。

学校教育法(がっこうきょういくほう)では、新(あたら)しく中学校(ちゅうがっこう)の決(き)まりが出(だ)されました。
中学校(ちゅうがっこう)は、修業年限(しゅうぎょうねんげん)が、3年間(ねんかん)の義務教育(ぎむきょういく)となりました。
中学校(ちゅうがっこう)に通(かよ)う年齢(ねんれい)は、小学校(しょうがっこう)を卒業(そつぎょう)した年(とし)から満(まん)15歳(さい)までとなりました。

学校教育法(がっこうきょういくほう)が出(だ)されたことにより、これまでの国民学校(こくみんがっこう)は、小学校(しょうがっこう)とみなすことになりました。

昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
亀山町国民学校(かめやまちょうこくみんがっこう)は、亀山町立亀山小学校(かめやまちょうりつかめやましょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。あわせて、高等科(こうとうか)がなくなり、亀山町立亀山中学校(かめやまちょうりつかめやまちゅうがっこう)ができました。

昭和(しょうわ)29年(ねん)(1954年(ねん))10月(がつ)1日(ついたち)
(あたら)しく亀山市(かめやまし)ができたため、亀山町立亀山小学校(かめやまちょうりつかめやましょうがっこう)は亀山市立亀山小学校(かめやましりつかめやましょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。
昭和(しょうわ)38年(ねん)(1963年(ねん))4月(がつ)1日(ついたち)
三重大学学芸学部附属亀山小学校(みえだいがくがくげいがくぶふぞくかめやましょうがっこう)がなくなったため、亀山市立亀山東小学校(かめやましりつかめやまひがししょうがっこう)ができました。そのため、亀山市立亀山小学校(かめやましりつかめやましょうがっこう)は、亀山市立亀山西小学校(かめやましりつかめやまにししょうがっこう)という名前(なまえ)に変(か)わりました。

昭和(しょうわ)57年(ねん)4月(がつ)1日(ついたち)
亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)の一部(いちぶ)が分(わ)かれて、亀山市立亀山南小学校(かめやましりつかめやまみなみしょうがっこう)ができました。

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