亀山市歴史博物館
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5−@ なんのために「り」をするの?


 みんなは「り」をしたことがありますか。「いちごり」や「みかんり」はしたことがあるというひともいるかもしれません。でも、本当ほんとうの「り」は、動物どうぶつ(おもにとりや4本足ほんあし動物どうぶつ魚介ぎょかい)をつかまえることです。では、なぜつかまえるのでしょうか。
 たとえば、(1)動物どうぶつにくなどをひとべるため、(2)動物どうぶつ毛皮けがわほねなどを生活せいかつ使つかうため、(3)動物どうぶつにくそなえるなどしてかみさまと交流こうりゅうするため、(4)農作物のうさくもつなどを動物どうぶつからまもるため、(5)動物どうぶつにく毛皮けがわなどをるため、(6)りをおこなうひとちからしめすため、(7)りをたのしむため、など、その目的もくてきはいろいろとあります。


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5−A 富士山ふじさんふもとりをしているのはだれ?


(ア)屏風びょうぶえがかれたりをよくると・・・

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富士巻狩図屏風ふじのまきがりずびょうぶ  亀山市歴史博物館所蔵佐野家資料

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源頼朝みなもとのよりともかんがえられる
人物じんぶつ

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大猪おおいのしし前後ぜんごさかさにまたがる人物じんぶつは、仁田忠常にったただつねかんがえられます。

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鹿しかうさぎなどをいこむ役目やくめ
勢子せこいぬ
 この屏風びょうぶは、市内しない民家みんかつかったものです。ると、富士山ふじさんふもと大勢おおぜい武士ぶしおおがかりなりをしているようすがえがかれています。そして、とくちょうてきなのは、いのしし前後ぜんごがさかさまにまたがった人がえがかれていることです。
じつは、富士山ふじさんふもとりで、このいのししにまたがったひとがいるとなれば、「いつ、だれが中心ちゅうしんになっておこなったりか」がわかってしまいます。この屏風びょうぶは、建久けんきゅう4年(1193年)の「富士ふじり」とばれる有名ゆうめいりの一場面いちばめんえがいたもので、このりをおこなったひと源頼朝みなもとのよりともです。
 だから、このなかで、かさをさしてもらって一番いちばんりっぱな格好かっこうをしたひと源頼朝みなもとのよりともだとかんがえられます。いのししにまたがっているのは、頼朝よりとも家臣かしんである仁田にった(新田)忠常ただつねです。実際じっさいはなしではないとされますが、『曽我物語そがものがたり』によれば、このりのなか忠常ただつね大猪おおいのしし前後ぜんごさかさにって、かたなでしとめています。たしかに、このなか人物じんぶつもそのとおりにえがかれています。


(イ)「富士ふじり」のおもな目的もくてきは?

 なぜ、「富士ふじり」は有名ゆうめいなのでしょうか。まず、このりが『吾妻鏡あづまかがみ』という歴史書れきししょや『曽我物語そがものがたり』のなかげられていることが第一だいいち理由りゆうでしょう。さらに、このりのなかでおこった曽我兄弟そがきょうだい仇討あだうちが、のち浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきなどの題材だいざいともなり、ひろられるようになったこともおおきな理由りゆうです。
 では、「富士ふじり」のおもな目的もくてきとはなんだったのでしょうか。このりの前年ぜんねん建久けんきゅう3年(1192年)には、頼朝よりとも征夷せいい大将軍たいしょうぐんになり、名実めいじつともに全国ぜんこく支配しはいしています。このようなおおきなりをおこなうことができる頼朝よりともは、とてもちからのあるひとだということであり、そのちからなからしめるためにこのりをおこなったとかんがえられています。

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5−B 縄文時代じょうもんじだいにはどうやってりをした?


縄文時代じょうもんじだいやく16500年前ねんまえ〜約3000年前ねんまえ)の人々ひとびとは、おもに動物どうぶつをとってべてくらしていたとされています。現在げんざい亀山市かめやましにあたる地域ちいきんでいた縄文時代じょうもんじだいひとも、そのようなくらしをしていたのでしょうか。
 このあたりでも動物どうぶつをとってべていた証拠しょうこの一つとしては、いしつくられたやりさき弓矢ゆみやじりがつかっています。やりげたり、弓矢ゆみやたりして動物どうぶつをとってべていたんですね。
 さて、ここに展示てんじしたやりさきじりも、いしってつくられたものです。動物どうぶつにちゃんとささるように、また、一度いちどささったらけにくいように工夫くふうされたかたちになっています。そして、そのようなかたちになるように、すこしずつってつくられています。これらの実物じつぶつをよくると、そのすこしずつったようすがえてきます。懐中電灯かいちゅうでんとうひかりをあてて、じっくりとてみましょう。




A:縄文時代じょうもんじだいいしつくられたやりさき有茎尖頭器ゆうけいせんとうき(鹿島遺跡・南鹿島町)  まちなみ文化財室所蔵資料
B:縄文時代じょうもんじだいいしつくられたじり:石鏃せきぞく(山ノ下遺跡・布気町)  まちなみ文化財室所蔵資料
C:縄文時代じょうもんじだいいしつくられたじり:石鏃せきぞく(下野垣戸遺跡・野村町)  まちなみ文化財室所蔵資料


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5−C 江戸時代えどじだい殿とのさまの


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江戸時代えどじだい殿様とのさま石川総恵いしかわふさかつ)が鹿狩しかがりをしたとき陣立図じんだてず
亀山市歴史博物館所蔵今井家文書
江戸時代えどじだい弘化こうか3年(1846年)4月、亀山城かめやまじょう城主じょうしゅであった石川総恵いしかわふさかつ明星ヶ岳みょうじょうがたけ白木町しらきちょう)にじんをかまえて、鹿狩しかがりをおこないました。これは、そのときじんのようすをえがいた陣立図じんだてず)です。このによって、総恵ふさかつとその家臣かしんがどのような配置はいちになっていたかをることができます。総恵ふさかつ位置いちは、じん中心ちゅうしんかれた「御馬みま」です。総恵ふさかつのすぐうしろには6人の家臣かしんがおり、そのうしろに幔幕まんまくえがかれています。
鹿しかるだけにしては、人数にんずうおおすぎますね。弘化こうか3年の総恵ふさかつりの目的もくてきなんでしょうか。江戸時代えどじだいわりにちか弘化こうか3年(1846年)は、外国がいこくふねがやってきて日本にたいしてさまざまな要求ようきゅうをつきつけ、平和へいわ江戸時代えどじだいになれた武士ぶしがもう一度いちどたたかわなければならなくなってきた時期じきにあたります。もしかすると、家臣かしんとともにたたか練習れんしゅうをすることが、このりの大切たいせつ目的もくてきだったのではないでしょうか。



部分拡大ぶぶんかくだい


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5−D 昭和しょうわ平成時代へいせいじだい


(ア)どのようにりをするの?

昭和時代しょうわじだい市内しないでおこなわれたりは、そのにくべたり、毛皮けがわなどをっておかねにしたりするためにもおこなわれましたが、生活せいかつによゆうがある人がおこなう趣味しゅみとしてもひろまっていました。鉄砲てっぽう使つか方法ほうほう、わなを使つか方法ほうほうがあり、りをしてよいのはふゆまった時期じきだけでした。
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猟師りょうしいぬ
バーベキュー鈴鹿峠所蔵資料
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猟師りょうしった鹿しかってはこ
個人所蔵資料


りのための鉄砲てっぽうたまつく道具どうぐ
亀山市歴史博物館所蔵坂下民芸館資料
鉄砲てっぽう使つか方法ほうほうでは、まず、ベテランがその場所ばしょ地形ちけい動物どうぶつ足跡あしあとなどをて、動物どうぶつがどの範囲はんいにいるかを調しらべ、その範囲はんいからそとるための「けものみち」をきわめる「見切みきり」をおこないます。つぎに、見切みきった範囲はんいからるための「けものみち」のちかくで鉄砲てっぽうってつ「まち」とよばれるやく配置はいちされ、「勢子せこ」とよばれるやくひといぬ一緒いっしょ動物どうぶつします。された動物どうぶつは、「けものみち」をとおってげようとして、「まち」にたれるというわけです。
 わなを使つか方法ほうほうは、くびどうなどをくくってげる「くくり」がおおかったのですが、近年きんねんは、動物どうぶつはいると入口いりぐちまるおりのわながえています。いずれも「けものみち」にしかけます。
 このようにりをするひとは、どんな動物どうぶつがいつここをとおり、どこへくのかを足跡あしあとなどの情報じょうほうからることがとても大切たいせつです。

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いのしし鹿しか兼用けんようのワナ(オリ)
個人所蔵

たかさ:やく150p、はばやく130p、奥行おくゆき:250p
毎年まいとしいのししが1、2とう鹿しかが3、4とうかかる。
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いのしし専用せんようのワナ(オリ)
個人所蔵

たかさ:やく80p、はばやく70p、奥行おくゆき:150p
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鹿しか頭部とうぶ剥製はくせい
個人所蔵

関町萩原せきちょうはぎわら男性だんせい昭和しょうわ14年まれ)が、平成へいせい15年(2003年)ごろに「わな(おり)」でった鹿しか剥製はくせいです。
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いのしし頭部とうぶ剥製はくせい
個人所蔵

関町萩原せきちょうはぎわら男性だんせい昭和しょうわ14年まれ)が、平成へいせい15年(2003年)ごろに「わな(おり)」でったいのしし剥製はくせいです。このいのししは、「大足おおぞく」(その毛皮けがわで5そく以上いじょうのくつがつくれる)とばれるおおきさで、おもさは150キロぐらいありました。


(イ)「害獣駆除がいじゅうくじょ」のための
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しとめたいのしし猟師りょうし(関町坂下・平成26年)
江藤家提供写真


平成時代へいせいじだい近年きんねんは、りをしてよいふゆまった時期じき趣味しゅみとして、それ以外いがい時期じきは「害獣駆除がいじゅうくじょ」のために動物どうぶつるというかたちわっています。「害獣駆除がいじゅうくじょ」のためのりとは、んぼやはたけらすなどのがいをおよぼす動物どうぶつ鹿しかさるいのししなど)をることです。ただ、あつ時期じきりをおこなうのは体力的たいりょくてきにきびしいうえに、りをするひとすくなくなり、全体的ぜんたいてき年齢ねんれいたかくなってきているので、なかなか大変たいへん状況じょうきょうです。


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5−E った動物どうぶつはどうするの?


った動物どうぶつをどうするのでしょうか。それはりをおこなった時代じだい、そのりの目的もくてき方法ほうほうった動物どうぶつ種類しゅるいなどによってもちがいます。
 ここでは、昭和時代しょうわじだい鉄砲てっぽう使つかってった鹿しか一例いちれいてみましょう。ただし、りのグループによって、方法ほうほう順番じゅんばんがちがうところがあります。
 まず、ったらすぐその場所ばしょで、鹿しかくための「血抜ちぬき」をおこないます。「血抜ちぬき」とは、のどから心臓しんぞうにかけて山刀やまがたなりをするひと小刀こがたな)をれてすことで、にくをくさりにくくするなどの意味いみがある大事だいじ作業さぎょうです。昭和しょうわなかごろまでは、毛皮けがわにとても価値かちがあってることができましたので、血抜ちぬきした鹿しかは、毛皮けがわいたまないようにぼうってひとがかついで、やまからはこびしていました。
つぎに、鹿しか解体かいたいします。(1)はら山刀やまがたなって内臓ないぞうす、(2)足首あしくびうちがわに山刀やまがたなれて全身ぜんしんかわをむいていく、(3)4ほんあしからだからはずす、(4)にく部分ぶぶんごとにり、りのグループの人数分にんずうぶんけて平等びょうどうける、というながれになります。グループによっては、いぬをつれてきた人は、自分じぶんの1人前にんまえいぬぶんとしてもう1人前にんまえにくをもらえるところ、鹿しかをしとめたひとあたま権利けんり最初さいしょあたえられるところもあります。


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5−F いのしし鹿しかにくほか部分ぶぶん使つかみちは?


(ア)いのしし鹿しかにくべる

みせべることができる鹿しか刺身さしみ
バーベキュー鈴鹿峠提供


みせべることができる猪鍋ししなべ
バーベキュー鈴鹿峠提供


昭和時代しょうわじだい前半ぜんはんごろまで、にくはかんたんにはいものではありませんでした。そのため、りでったいのしし鹿しかなどのにく大切たいせつべられていました。とくによくられていたいのししは、あぶらおおいほどあじいとされてこのんでべられました。しかし、そのいのししにくりをするひとたちがべるだけで、ほとんどほかひとくちはいることはありませんでした。
りをするひとたちは、おもにいのしし内臓ないぞうにくのこっているほねなどをた「あらだき」、いのししにく野菜やさいなどで作つくる「猪鍋ししなべ」にして、いのししべていました。鹿しかにくは、よく刺身さしみべられてきましたが、近年きんねんえすぎて問題もんだいとなっている鹿しかることがおおくなり、そのにくをおいしくべるさまざまな料理りょうりこころみられています。また、あぶらおおいのししにくよりもヘルシーであるとして、あぶらすくない鹿しかにくこのひとえてきているようです。


(イ)いのしし鹿しかにく以外いがい部分ぶぶん使つか




しし
江藤家提供


では、にく以外いがい部分ぶぶん使つかみちはあったのでしょうか。まず、毛皮けがわです。昭和時代しょうわじだいなかごろまでは、鹿しか毛皮けがわ敷物しきものやチョッキなどの材料ざいりょうとして人気にんきもあり、ることができました。また、ることはなかったようですが、いのしし毛皮けがわは、やまではく「くつ」の材料ざいりょうとされていました。いまでもりをする人たちは、いのししおおきさを「3そく」「4そく」「5そく(または、大足おおぞく)」などという言葉ことばであらわしていますが、それはもともと何足分なんそくぶんのくつの材料ざいりょうがとれるおおきさのいのししであるかを意味いみしていました。奈良県吉野地方ならけんよしのちほう三重県伊賀地方みえけんいがちほうでも、このようないのししおおきさのあらわしかたがあります。
いのしし内臓ないぞううちたんのうをしたものは「しし」とばれ、腹痛はらいたくすりとして使つかわれていました。とてもにがくてみにくいのですが、よく効果こうかがあったということです。そのため、りのなかいのししにとどめをさしたひとがその「しし」をもらうことができたというはなしもあります。
 また、昭和時代しょうわじだい後半こうはんになってくると、りでったいのしし鹿しか専門せんもん業者ぎょうしゃして剥製はくせいつくることがはやりました。剥製はくせいとは、にく内臓ないぞうをとりのぞき、かわりに綿わたなどをつめてきているときのようすを再現さいげんしたものです。とくに流行はやったのは鹿しかくびからうえ剥製はくせいで、かど立派りっぱなオスが剥製はくせいにされました。しかし、近年きんねんは、りでった動物どうぶつ剥製はくせいにすることも、あまり流行はやらなくなってきているようです。


    いのしし毛皮けがわ


バーベキュー鈴鹿峠所蔵

いまから10年ほどまえられたいのしし毛皮けがわです。昭和しょうわ22年(1947年)ごろの市内しないには、いのしし毛皮けがわつくった山用やまようのくつをはいていたひとが、わずかにいました。いのしし毛皮けがわがどんなざわりか、さわってたしかめてみましょう。
 ※こわれやすいので、やさしくさわってください。


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