亀山市歴史博物館
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2−@ 古墳時代こふんじだいのこの地域ちい きうまがいた?



古墳時代こふんじだいくつわ
柴戸遺跡しばといせき栄町さかえまち

まちなみ文化財室所蔵

古墳時代こふんじだい(1700年〜1400年ほどまえ)の亀山市かめやましにあたる地域ちいきには、うまがいたのでしょうか。当時とうじのこの地域ちいきうまについての記録きろくはありませんが、実物じつぶつとして見つかっているものがあります。それは、うまける道具どうぐである「馬具ばぐ」です。馬具ばぐにも種類しゅるいがあり、かたち名前なまえがちがいます。たとえば、口くちにつける「くつわ」、背中せなかにつける「くら」、くらにまたがったひとあしをかける「あぶみ」などがあります。
市内しないでは、井田川茶臼山古墳いだがわちゃうすやまこふん(みどり町)からくつわくらあぶみなどが、また、柴戸遺跡しばといせき栄町さかえまち)からくつわが見つかっています。うまにつける馬具ばぐがあったということは、この地域ちいきうまもいたとかんがえることができる のです。


古墳時代の馬具


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2−A 江戸時代えどじだいのこの地域ちいきにいたうまかずは?


古墳時代こふんじだいから1000年以上いじょうあとの江戸時代えどじだい亀山市かめやましにあたる地域ちいきには、たくさんのうまがいました。
江戸時代えどじだいはじめは、ものひとをはこぶだけでなく、たたかいの道具どうぐとしても使つかわれていましたが、しだいに平和へいわなかになり、交通こうつう発達はったつすると、うま役割やくわりひとものをはこぶことを中心ちゅうしんとするようになりました。
元禄げんろく15年(1702年)に大庄屋おおじょうや打田権四郎昌克うちだごんしろうまさかついた「九々五集くくごしゅう」には、当時とうじまちむらごとにうまうしかずかれています。

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いま亀山市かめやましにつながる亀山領内かめやまりょうないまちむらにかぎれば、うまが677とううしが584とういたことになり、うしよりもうまおおかったことがかります。江戸時代えどじだいには、いかにうま必要ひつようであったかをることができます。


    半田写本はんだしゃほん九々五集くくごしゅう

 「九々五集くくごしゅう」とは、江戸時代えどじだい元禄げんろく15年(1702年)に大庄屋おおじょうや打田うちだ権四郎昌克ごんしろうまさかつがまとめた記録きろくです。この中に牛馬ぎゅうばかずについて書いた部分ぶぶんがあります。なお、半田写本はんだしゃほんとは、「九々五集くくごしゅう」を半田忠敬という武士 ぶしうつしたものです。


亀山市歴史博物館所蔵


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2−B 江戸時代えどじだい武士ぶしうま


戦国時代せんごくじだいにできあがったとされる本格的ほんかくてき武芸ぶげいとしての馬術ばじゅつは、武士ぶしうまをのりこなしてたたかいのなか使つかうものでしたが、江戸時代えどじだい平和へいわなかでは、実際じっさいたたかいで使つかうことがなくなってしまいました。しかし、馬術ばじゅつふるくから武士ぶしがとても大事だいじにしてきた武芸ぶげいの一つであったため、まなびつづけられました。この地域ちいきにいた武士ぶし馬術ばじゅつを学んでいたことがわかる記録きろく道具どうぐがのこされています。

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江戸時代えどじだいくつわ
亀山市歴史博物館所蔵今井家資料


江戸時代えどじだいくら
亀山市歴史博物館加藤家寄託資料

亀山かめやま殿とのさまであった石川家いしかわけ家老かろう家紋かもんが入った朱塗しゅぬりのくらです。
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江戸時代えどじだい十字轡じゅうじくつわ
亀山市歴史博物館所蔵今井家資料



八条流馬術早馬はちじょうりゅうばじゅつはやうま秘書ひしょより7種類しゅるいはしかた
(亀山市歴史博物館所蔵加藤家文書)

 上の画像がぞうをクリックすると画像がぞうれかわります。
《7種類しゅるいはしかた一覧いちらん

第一
乱足みだれあし

第二
かたみだれあし

第三
踊足おどりああし

第四
揃足そろいあし

第五
千鳥足ちどりあし

第六
運足はこびあし

第七
延足のびあし


    大坪新流木馬寸法図おおつぼしんりゅうもくばすんぽうず復元木馬ふくげんもくば
画像クリック
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大坪新流木馬寸法おおつぼしんりゅうもくばすんぽう 亀山市歴史博物館所蔵今井家文書


大坪新流木馬おおつぼしんりゅうもくば復元ふくげん
亀山市歴史博物館所蔵

 この三枚さんまいは、亀山市歴史博物館かめやましれきしはくぶつかん所蔵しょぞうしている今井家文書群いまいけもんじょぐんのうち、大坪新流馬術おおつぼしんりゅうばじゅつ木馬寸法図もくばすんぽうずです。復元木馬ふくげんもくばは、この三枚さんまい寸法すんぽうなどをもとにつくりました。



  うま治療ちりょう使つかはり
  亀山市歴史博物館所蔵今井家資料
 また、武士ぶしうまかた手入ていれにもをつかい、うま病気びゅうきなおかたなどもまなんでいました。とくうまをあつかう役目やくめについていた武士ぶしは、うまのエキスパートともいうべき知識ちしき技術ぎじゅつにつけていました。


    うまはりをほどこす部分ぶぶんをしめす

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用馬愚勘集ようばぐかんしゅう 亀山市歴史博物館所蔵今井家文書

うまはりをほどこす部分ぶぶん名前なまえ、そこをどれくらいのながさをるか、やぶるかなどの治療ちりょう方法ほうほうかれています。
 これらのは、「用馬愚勘集ようばぐかんしゅう」というにかれていたものです。この「用馬愚勘集ようばぐんかんしゅう」は、亀山の殿とのさまであった石川家いしかわけ家臣かしんである今井家いまいけつたわっていたもので、文化ぶんか10年(1813年)にもと文書もんじょからうつしたとかれています。


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2−C 荷馬車にばしゃものをはこぶ


馬車馬ばしゃうま馬車屋ばしゃや(本町) 個人所蔵

明治めいじ41年(1908年)12月には、当時とうじ亀山町かめやまちょうで4だいの「荷馬車にばしゃ」があったという記録きろくがあります。(『鈴鹿郡すずかぐん亀山町かめやまちょう郷土誌きょうどし』)。
 また、昭和しょうわ26年(1951年)の亀山町かめやまちょうには、140だいの「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」がありました。当時とうじ亀山町かめやまちょうには、うまが4とうしかいないという記録きろくがありますので、ほとんどの「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」は、うしにひかせていたことになります。つまり、荷馬車にぎゅうばしゃおおくても4だいだったということです(『亀山町町勢要覧かめやまちょうちょうせいようらん昭和しょうわ26年度版ねんどばん)。亀山町かめやまちょうにかぎれば、荷馬車にばしゃすくなかったようです。

  馬車屋ばしゃやうまがつけた蹄鉄ていてつ
  亀山市歴史博物館所蔵八木家資料
 しかし、太平洋戦争平洋戦争後たいへいようせんそうごすぐには野登村ののぼりむらに25人の馬車屋ばしゃや荷馬車にばしゃものをはこぶ職業しょくぎょう)がいたとされています(『亀山市史かめやましし民俗編みんぞくへん』)。地域ちいき時代じだいによっては、荷馬車にばしゃかずはずいぶんとちがうのかもしれません。
市内しないでは、昭和しょうわ30年だいにトラックがひろまっていき、荷馬車にばしゃよりもトラックで荷物にもつをはこぶ仕事しごとがふつうになっていきました。それでも、昭和しょうわ45年(1970年)ごろまで馬車屋ばしゃやをしていたひともあったとわれています。


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