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凡例  1.印刷のはじまり  2.版木の普及と拡大  3.亀山での印刷事業  4.普及する印刷  協力者・参考文献・出品一覧

3.亀山での印刷事業

 市内の印刷事業は、明治21年(1888)の加藤活版所に始まります。日本で本格的な活版印刷が始まったのは明治2年(1869)、本木昌造(もときしょうぞう)が長崎に活版伝習所を開き、金属活字の鋳造に成功して以後のことです。日本での本格的な始動から20年後、市内でも活版印刷が始まり、普及していきます。

(1)活版(かっぱん)印刷

 活版印刷とは、鉛を主とした合金でできた活字を組み合わせて組版(くみはん)を作り、組版にインキを塗って印刷機にかけて印刷する凸版(とっぱん)印刷です。日本で本格的に活版印刷が始まるのは、明治2年(1869)、本木昌造(もときしょうぞう)が金属活字の鋳造に成功して以後のことです。


23.活字
   近代 米川宗七活版所
 活字は(なまり)を主にアンチモン、スズから成る合金でできています。サイズは、初号、1号から8号までがあり、数字が大きくなるほど活字は小さくなります。書類原稿などで5号を標準として最もよく使い、7号はふりがなに用いました。
米川宗七活版所は、7号までのサイズと明朝体・ゴチック体・楷書体の書体、アラビア数字、花形(ふち飾り用)の活字を持っています。
23.活字 23.活字 活字号数とポイント換算
活字号数とポイント換算(PDF)
活字


24.込め物【込金(こみがね)
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 活字組版(くみはん)の文字と文字の間やまわりの空間を作るために使います。印刷されないよう、活字より低く作られています。
全角以上のものを「クワタ(quadrat)」、全角に満たないものを「スペース(space)」といいます。長さが5号の8倍、幅が5号の2倍のものを「ホールマ」と呼んでいたそうです。
*ホールマ:大きい込め物をさすフォルマート(formatsteg)が転訛(てんか)したものか。
 【   】表記について 
 昭和28年(1953)から印刷業に従事した方への聞き取りによる呼称 

24.込め物【込金】
込め物【込金】


25.()(もの)
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
25.込め物
込め物


26.(もく)インテル
   近代 米川宗七活版所
 活字組版で行間の空きを作るために使う木製の板です。高さは印刷されないよう活字より低く、太さは活字の各号数の太さにあわせて作られています。
 また、文字の多い組版では版が崩れるのを防ぐ役割もありました。
26.木インテル 26.木インテル
木インテル


27.罫線(けいせん)罫金(けいがね)
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 線を印刷するための薄い金属板です。印刷するため活字と同じ高さで作られています。
27.罫線【罫金】
罫線【罫金】


28.罫線(けいせん)
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 線を印刷するための薄い金属板です。印刷するため活字と同じ高さで作られています。
28.罫線
罫線【罫金】


29.罫切器(けいきりき)
   加藤活版所資料  近代 加藤家
29.罫切器
罫切器


30.罫切器(けいきりき)
   加藤活版所資料  近代 博物館明治村
 原稿のサイズにあわせて罫線を切る器具です。昭和28年(1953)4月22日に罫切器1台を購入したことが記録されています[昭和28年度営業費用帳(加藤家所蔵)]。
30.罫切器
罫切器


31.罫切(けいきり)
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
31.罫切
罫切


32.文選箱(ぶんせんばこ)【ゲラ箱】
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 原稿にあわせて文選架(ぶんせんか)(活字棚)から1文字ずつ活字を拾い集める作業を「文選(ぶんせん)」と言います。活字を手元の箱である文選箱に集めていきます。採字箱とも呼ばれます。文字の種類の多い漢字文化圏特有の道具です。
32.文選箱
文選箱


33.文選箱【ゲラ箱】(2段)
   近代 米川宗七活版所
 文選箱は1段から2段へと変化します。上段には文選の際、活字の文字並び順で近いものを入れ、下段で原稿の文章となるように整えます。
33.文選箱【ゲラ箱】(2段)
文選箱【ゲラ箱】(2段)


34.活字組版(くみはん)
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 平成9年(1997)に加藤活版所で当館の館名・住所・電話・FAX番号の組版を作ってもらいました。活字、文字の空間に込め物を組み、行ごとに木インテルを入れ、最後にくくり糸(丈夫な木綿糸)で版をしばっています。
34.活字組版
活字組版


35.文選(ぶんせん)
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
35.文選 35.文選
文選


36.植字(しょくじ)
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
36.植字 36.植字
植字


37.ピンセット
   現代 米川宗七活版所
 活字の6号・7号を拾うために使いました。動かす回数が多いため、何度かピンセットを買い換えたそうです。
37.ピンセット
ピンセット


38.ゲラ【()(ぼん)(上)・組台(くみだい)(下)】
   加藤活版所資料  明治39年(1906) 亀山市歴史博物館
 置きゲラ(上)と組みゲラ(下)です。組みゲラは、文選箱で集めた数行分の活字をひとつにまとめる「植字(しょくじ)版組(はんぐみ))」作業をする台です。3辺の縁は木製、底板は金属製です。まとめゲラとも、関西では組み盆ともいいます。置きゲラは、組みゲラでできあがった組版を保管・運搬する盆状のものです。
 右手前に傾斜がつくように加工した組台の上に、組み盆を重ね、右手前から活字を並べ、植字作業をしました。
*ゲラ:ギャリー(galley)が転訛してゲラと呼ばれるようになった。
38.ゲラ【組み盆(上)・組台(下)】
ゲラ【組み盆(上)・組台(下)】
 ゲラ銘文 
 組台内側の墨書によれば、組台は、日露戦争の凱旋(がいせん)を紀年して、明治39年(1906)に2円で購入したものです。
翻刻
ゲラ銘文翻刻(PDF)


39.文選(説明再現)
   米川宗七活版所  平成30年撮影 亀山市歴史博物館
39.文選(説明再現) 39.文選(説明再現)
文選(説明再現)


40.植字
   昭和39年(1964) 米川宗七活版所
 文選箱に集めた活字で、原稿どおりの文章に組む作業をしているところです。直接、ゲラの上で版組(はんぐみ)をすることから、「ゲラ組」と呼ばれています。関西方面でよく用いられる技法です。
 写真の女性(昭和10年生)は、高校卒業後すぐに印刷業に従事しました。初めての植字で3枚が組めたそうです。
40.植字
植字


41.印刷物乾燥台
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 印刷後に、インクが乾くまで乾燥させるための台です。ロージにのせて重ねて干したようです。インクが手に付くとなかなか取れないため、ブラシで手を洗ったそうです。「営業費用帳(加藤家所蔵)」にも石鹸の購入記録がたびたびあります。
41.印刷物乾燥台 41.印刷物乾燥台 41.印刷物乾燥台
印刷物乾燥台


42.製本用たたき台
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 製本作業の過程で、千枚通しで紙に穴をあける際、台にのせて作業することもありました。
42.製本用たたき台
製本用たたき台


43.製本用棍棒(こんぼう)
   加藤活版所資料  近代 亀山市歴史博物館
 製本作業で糊付けした部分が厚くなり積み重ねにくいため、叩いて厚さを均等にしました。
43.製本用棍棒
製本用棍棒


44.ニカワローラー造器(つくりき)
   加藤活版所資料  近代 博物館明治村
 活版印刷機のインキ用のローラーを造る器械です。筒の中に湯煎(ゆせん)したニカワを流し込んで芯棒にニカワを巻き付け、ローラーにします。
 罫線[出品番号27・28]でニカワが切れると、多色刷りの場合、インキを変えた際に前に使っていたインキの色がにじみ出てしまうため、1年に数回ローラーを造ったそうです。
44.ニカワローラー造器
ニカワローラー造器


45.活版印刷機印刷作業
   昭和41年(1966) 米川宗七活版所
 活版印刷機に紙を手差(てざ)ししているところです。
45.活版印刷機印刷作業
活版印刷機印刷作業


46.全自動活版印刷機 B THREE AUTO(米川宗七活版所)
   平成30年撮影 亀山市歴史博物館
 大阪の橋本鉄工所製の全自動活版印刷機です。活版印刷機のインキローラーとしてニカワローラー造器[出品番号44]で造られたローラーが使われました。
46.全自動活版印刷機 B THREE AUTO(米川宗七活版所)
全自動活版印刷機 B THREE AUTO(米川宗七活版所)


47.活版印刷機作業(説明再現)(米川宗七活版所)
   平成30年撮影 亀山市歴史博物館
 印刷機に組版(くみはん)を組み付ける際の締めつけ作業を再現してもらいました。組版(今回は設置していません)のまわりに()(がね)を置き、ジャッキでネジを回して締め付けます。
47.活版印刷機作業(説明再現)(米川宗七活版所) 47.活版印刷機作業(説明再現)(米川宗七活版所)
活版印刷機作業(説明再現)(米川宗七活版所)


48.製本ミシン
   加藤活版所資料  近代 博物館明治村
 紙にミシン目をいれる機械です。5〜6枚ずつはさんで作業しました。ミシン目は丸い穴が連続する形になります。現在の短い線が続く形とは異なります。
昭和41年(1966)11月9日には、「穴明ミシン」の修理を光文堂(名古屋市)に依頼しており[昭和41年営業費用帳(加藤家所蔵)]、修理しながら使いつづけたものでした。
48.製本ミシン
製本ミシン


49.タテ庖丁
   加藤活版所資料  近代 博物館明治村
 紙を裁断するための庖丁(ほうちょう)です。庖丁の手入れは、月1度程度行われていました。年間の営業費用をまとめた帳簿によれば[営業費用帳(昭和28年〜45年)(加藤家所蔵)]、多少の変動はあるものの、月1度は「庖丁研ぎ」という支出をしています。
49.タテ庖丁 49.タテ庖丁
タテ庖丁


50.木槌(きづち)
   昭和時代 米川宗七活版所

51.千枚通(せんまいどお)
   昭和時代 米川宗七活版所
 木槌で千枚通しを叩いて穴をあけ、ハリガネで綴じ、その上にクロスを貼って製本しました。ハリガネは罫切(けいきり)バサミで厚さにあわせて切断し、断裁機(だんさいき)で紙の4辺を切断、その後、製本の作業を行います。クロス貼りには小麦粉を炊いた糊を使用しました。
51.千枚通し
千枚通し


52.製本作業
   昭和46年(1971) 米川宗七活版所
 製本の仕上げ、クロス()りをしているところです。
 写真の女性(大正11年生)は、鈴鹿郡内(現在の亀山市・鈴鹿市の西部)を自転車で注文を取りに回ったそうです。
52.製本作業
製本作業


53.()フート
   加藤活版所資料  近代 博物館明治村
 ハガキや名刺などの小さなものを印刷する機械です。インキを塗った活字を紙に押しつけて印刷します。手フートという名前は、足踏(あしぶ)(しき)平圧(へいあつ)印刷機(いんさつき)(footpress)からコンパクト化し、手で印刷できる形となったため、手動式の「手」と前の機械の「foot」をあわせて作られました。

 手フートの使い方
1.活字をセット。
2.左手のハンドルを押し下げて、インキローラーをあげる。
  *インキローラー:部品がありません
3.インキ台でのばしたインキをローラーで活字に塗る。
4.ハンドルを下まで押し下げ、紙を活字に押しつけて印刷。
53.手フート 手フート部分名称
手フート


(2)印刷事業のはじまり

 亀山での活版印刷事業は、明治21年(1888)に創業した加藤商店内の加藤活版所に始まります。加藤活版所では、何人もの職人が働いていました。職人たちの中からは、技術を習得して独立を果たし、印刷所を開業した人もいます。側に亀山町役場、周辺に学校や会社が集まる亀山町東丸(東丸町)で創業したことは、その後の発展につながったと考えられます。
 加藤活版所 
 加藤正斎(せいさい)が戊辰戦争(1868〜1869)から戻り、書店・印刷・文房具業の3部門から成る加藤商店を始めました。その印刷部門が、市内最初の印刷事業を行った加藤活版所でした。
     
 創業者の正斎とその息子で印刷部門を担当した寿郎は、印刷技術を持っていたのではなく、技術者を雇用して経営に専念していました。加藤商店は、刊行物の印刷から販売までを一貫して請け負う手法で発展したと考えられます。
 加藤活版所で修行した職人たちの数人は独立を果たし、印刷所を開業しました。
     


54.看板
   加藤活版所資料  近代 加藤家
 「加藤活版印刷工場」と「加藤印刷所」の看板です。両面を使っています。長くかけられたのは、「加藤活版印刷工場」の看板でした。
54.看板 54.看板
看板


55.行賞帳(こうしょうちょう)
   加藤活版所資料  大正元年(1912)〜昭和27年(1952) 加藤家
 加藤商店で支払われた大正元年(1912)から昭和27年(1952)までの夏季・冬季の賞与の記録です。表紙に「加藤印刷所創立年月 明治二十一年三月」とあることから、加藤活版所が明治21年(1888)に創業したことがわかります。
55.行賞帳
行賞帳


56.加藤商店
   加藤活版所資料  昭和時代前期 加藤家
 昭和時代前期頃の加藤商店の写真です。2階には「加藤商店」、1階には「図書 文具 印刷」の3つを取り扱っている切り文字看板が掲げられています。手前に写っている瓦葺き建物が印刷所です。
56.加藤商店
加藤商店


57.昭和二十二年度当座日記帳
   加藤活版所資料  昭和22年(1947) 加藤家
 昭和22年(4月20日から12月31日)の加藤商店内の取引記録です。支出・収入が日付ごとに記録されています。加藤活版所の材料の購入先、印刷の受注先なども確認できます。
57.昭和二十二年度当座日記帳 57.昭和二十二年度当座日記帳 57.昭和二十二年度当座日記帳 57.昭和二十二年度当座日記帳
57.昭和二十二年度当座日記帳
昭和二十二年度当座日記帳


58.活字組版(くみはん)
   加藤活版所資料  近代 加藤家
 加太小学校の封筒差出者部分、亀山神社の大祓札(おおはらえふだ)、駐車場なかむら(御幸町)の受領票の組版です。加太小学校の封筒は、平成の元号があるため、平成時代も活版印刷による封筒印刷を行っていたことがわかります。また、亀山神社の大祓札は、昭和22年(1947)の帳簿[出品番号57]にも受注記録があります。
58.活字組版
活字組版


59.木活字(もっかつじ)
   加藤活版所資料  近代 加藤家
 活字組版に組み込んで使いました。発注者の商標と考えられますので、活字にはないオリジナルのマークのため、手近な原料である木材を使って作ったのではないでしょうか。
59.木活字 59.木活字 59.木活字 59.木活字
59.木活字
木活字


60.加藤活版所内
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
 活版印刷機が写っています。
60.加藤活版所内
加藤活版所内


61.ケース架
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
 活字を収納する板状のケースである「すだれケース」を両面に立てかける台です。ここで文選(ぶんせん)の作業を行います。文選架(ぶんせんか)やウマとも呼びます。
 *ウマ:ウマの背のような形と四方に開いた支脚による呼び名。
61.ケース架 61.ケース架
ケース架


62.組版(くみはん)
   加藤活版所資料  平成9年撮影 亀山市歴史博物館
 組版が棚に置かれています。よく使う組版は組んだまま保存していました。
62.組版
組版


63.亀山町全図原版
   加藤活版所資料  大正14年(1925) 亀山市歴史博物館(個人寄託資料)
 亀山町全図の銅製原版です。地図は細かい線を印刷する必要があるため、銅版印刷が用いられたと考えられます。銅版印刷は、木版や活版印刷とは逆に文字の部分がへこんだ凹版(おうはん)印刷です。版面の凹部にインキを流し込み、プレス機で圧をかけて版から紙へインクを転写させて印刷しました。
63.亀山町全図原版 63.亀山町全図原版
亀山町全図原版


64.亀山町全図
   加藤活版所資料  昭和4年(1929) 亀山市歴史博物館(個人寄託資料)
 発行兼編纂者は加藤五百記、印刷所は加藤活版所の亀山町全図です。編集・印刷・発行を加藤商店内で行っています。
 大正14年(1925)の原版[出品資料63]と比較すると、ベースマップは同じであるものの、5年間の変更点があります。大正15年に廃止された郡役所の削除、昭和4年に航空機の安全運行のために設置された無線電信所と新たに設置された井田川駅の加筆などが確認できます。
64.亀山町全図 64.亀山町全図
亀山町全図


65.(ふみ)(いずみ)第1巻第2〜5号
   加藤活版所資料  明治27年(1894) 加藤家
 亀山で最初に発行された文芸誌です。編集と発行は亀山町西町にあった紅葉社、印刷は加藤活版所です。
65.文の湖第1巻第2〜5号
文の湖第1巻第2〜5号


66.同窓会通信第1号
   加藤活版所資料  明治27年(1894) 加藤家
 鈴鹿郡高等小学校の同窓会通信です。文の湖[出品番号65]と同じ天野多一郎の編輯、加藤活版所の印刷によるものです。
66.同窓会通信第1号 66.同窓会通信第1号
同窓会通信第1号


67.三重県鈴鹿郡全図(校正)
   加藤活版所資料  明治38年(1905) 亀山市歴史博物館(個人寄託資料)
 明治38年に出版予定の三重県鈴鹿郡全図の編集時の資料です。編纂者が三重県鈴鹿郡役所、発行兼印刷社が加藤五百記(加藤書店)、印刷所が加藤活版所です。加藤商店(加藤活版所・加藤書店)は、公的機関から受注していたことがわかります。
67.三重県鈴鹿郡全図(校正) 67.三重県鈴鹿郡全図(校正)
三重県鈴鹿郡全図(校正)


68.大正十一年三重県鈴鹿郡勢要覧
   加藤活版所資料  大正12年(1923) 亀山市歴史博物館(個人寄託資料)
 鈴鹿郡全図[出品番号67]と同じく、三重県鈴鹿郡役所から受注し、加藤活版所が印刷したものです。
68.大正十一年三重県鈴鹿郡勢要覧 68.大正十一年三重県鈴鹿郡勢要覧 68.大正十一年三重県鈴鹿郡勢要覧></A>

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大正十一年三重県鈴鹿郡勢要覧


 亀山町勢一班にみる活版植字職の賃金 
 昭和2年:100銭 昭和5年:80銭 昭和7年:80銭
 活版印刷で植字作業をする職人は、1日80〜100銭で働いていました。同じ調査対象となっている職人と比較すると、高額が支払われる職人ではなかったようです。
     亀山町勢一班

 行賞帳(こうしょうちょう)による雇用者 
 行賞帳[出品番号55]では、大正元年(1912)冬から昭和45年(1970)冬まで、加藤商店の雇用者に対し支払った夏・冬のボーナス額が記録されており、職人から下男・下女まで含めた雇用人数がうかがえます。最多となったのは、昭和16〜21年の間で、29人にボーナスを支払っていました。
 本書類には、雇用初年も記録されており、最古参は明治26年(1893)雇用の米川与一と神田喜太郎の2人でした。また、太平洋戦争の影響もみられます。昭和17年と18年には徴用による離職が記録され、1人は昭和21年に復職しています。
     加藤商店雇用人数

 活版印刷に要する道具 
 活版印刷に要する道具とその購入先は、昭和22年〜27年の「当座日記帳」、昭和26年・28年〜45年の「営業費用帳」にまとめられています。
 活版印刷に必要である活字は、加藤活版所では、光文堂(こうぶんどう)三省堂(さんしょうどう)波田(はだ)活字店から購入していました。その後、加藤活版所で学んで開業した市内の印刷所も同様で、活字鋳造は行わず印刷のみを行う事業運営でした。活字購入に対する支払は月1度まとめて行われていましたので、定期的に購入していたか、月賦払いで購入していたと考えられます。
翻刻
活版印刷に要する道具(PDF)

 加藤活版所の受注範囲 
 加藤活版所は、現在の亀山市内を中心に鈴鹿市・津市・四日市市の一部から印刷を受注していました。特に、各町村役場といった官公庁とその周辺にある会社・店舗・病院などからの仕事を請け負っていた様子が見うけられます。亀山町役場の側での起業は、地の利を生かした戦略だったのではないでしょうか。
翻刻
昭和22年受注先(個人を除く)(PDF)

   


凡例  1.印刷のはじまり  2.版木の普及と拡大  3.亀山での印刷事業  4.普及する印刷  協力者・参考文献・出品一覧

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