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凡例  1.印刷のはじまり  2.版木の普及と拡大  3.亀山での印刷事業  4.普及する印刷  協力者・参考文献・出品一覧

1.印刷のはじまり

 印刷された年がわかる最古の資料は、百万塔に納められた無垢浄光陀羅尼経(むくじょうこうだらにきょう)です。内乱に対する追悼と国家安泰を願って、百万基が造られました。塔内に納める経典は、百万枚を用意する必要がありました。そのため、初めて印刷という手法が選ばれました。


1.百万塔(ひゃくまんとう)
   奈良時代 安堵町歴史民俗資料館
 木製の三重の小塔です。現在は、生地(きじ)になっていますが、部分的に白土が残っていますので、完成した時には白土を全面に塗った姿でした。
 また、相輪(そうりん)部のほぞ底面と塔身(とうしん)部の第三層笠上面の2か所に墨書があり、工人の名前だと考えられます。これまでに250名あまりの名前が確認されていますので、その一人かもしれません。
百万塔
百万塔
 百万塔各部解説 
塔身部第三層笠上面
 「  ]呂」と見える墨書が残っています。この百万塔を作った工人の名前と考えられます。
塔身部第三層笠上面
相輪部ほぞ底面
 墨書が見えますが、文字は読めません。これまでに、工人名、日付、左右(左右に分かれた工房の名前)と考えられていますので 、この墨書もそのいずれかであろうと思われます。
相輪部
塔身部基部側面
 「二」の刻印があります。この刻印は、ほぞ孔に納める経 典の種類を表していると考えられています。これまで「二」は、相輪陀羅尼経を示していると考えられていましたが、本百万塔の内 部には自心印陀羅尼経が納められていました。
塔身部基部側面
塔身部底面
 4本の鉄爪の跡が十字型に残っています。これは、木工用の横軸ろくろに取りつけた跡です。十字型の爪は、爪痕が残されている うちの2パーセントほどです。爪の形は約120種類が確認されており、多くの工人が関わったとみられています。
塔身部底面


2.無垢浄光陀羅尼経(むくじょうこうだらにきょう)自心印(じしんいん)陀羅尼経)
   奈良時代 安堵町歴史民俗資料館
 天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)から宝亀(ほうき)元年(770)に印刷されたことがわかっている最古の印刷物です。紙は黄檗染(きはだぞめ)の麻紙を使っています。ただ、印刷方法は、木版と銅版の2つの案が出され、木版印刷によるとの見解が強いものの、いまだ明らかになっていません。
無垢浄光陀羅尼経(自心印陀羅尼経)
無垢浄光陀羅尼経(自心印陀羅尼経)


3.続日本紀(しょくにほんぎ) 巻二十九・三十
   江戸時代後期 個人
 天平宝字8年(764)に起こった恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に対する追悼と国家安泰を願い、称徳天皇が三重の小塔百万基の造立を命じました。宝亀元年(770)4月26日(戊午)に完成し、小塔はいくつかの寺へ納められ、また関わった人々157人に褒賞を与えました。
続日本紀 巻二十九・三十
続日本紀 巻二十九・三十
 書き下し文 
宝亀元年(七七〇)四月戊午(二六)条
 初め、天皇、八年の乱平らきて、乃ち弘願を発して、三重の小塔一百万基を造らしむ。高さ各四寸五分、基の径三寸五分、露盤の下に、各根本・慈心・相輪・六度等の陀羅尼を置く。是に至りて功畢りて、諸寺に分かち置く。事に供する官人已下仕丁已上、一百五十七人に爵を賜ふこと各差有り。
 実物の百万塔と『続日本紀』の記録 
 『続日本紀』では、高さ四寸五分、直径三寸五分であると記されています。本百万塔の高さは、総高21.5cm、塔身(とうしん)部13.2cm、直径10.8cmであることから、塔身部の高さと直径が記録と合致しています。
 同様に、経典についても、相輪(そうりん)の基部である露盤(ろばん)の下に4種類の陀羅尼経(根本・慈(自)心・相輪・六度)を納めると記されています。本経典は、無垢浄光陀羅尼経の自心印陀羅尼経であり、露盤の下、つまり相輪の下の塔身部に穿(うが)たれた(あな)に納められており、記録と合致しています。
 なお、百万塔の作成期間は、天平宝字8年(764)9月から宝亀元年(770)4月までの5年半ですので、1日のノルマとして塔身部・相輪部それぞれ約500基を作成することになります。


   

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