(2)「能褒野」はどこか
日本武尊が葬られた「能褒野陵」の場所は、江戸時代になると国学者たちによって、調査、研究が進められました。明治時代には、亀山藩が別案を提示します。そして、4か所の候補地が提示されることになりました。白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)、武備塚(鈴鹿市長澤町)、二子塚(鈴鹿市長澤町)、丁子塚(亀山市田村町)の4か所です。
能褒野の場所は、明治9年(1876)11月、一度は教部省により白鳥塚に決定したものの、同12年10月、宮内省によって丁子塚に改定されました。丁子塚が能褒野であるという建議があったため再調査をし、改定を行ったのです。
江戸時代には、白鳥塚が能褒野の候補地であるとの見解が強く、丁子塚は、あまり眼中にないようです。しかし、本居宣長や門人の坂倉茂樹は、実際に丁子塚を調査していることから、調査対象とするべき古墳であるとの認識があったのではないでしょうか。
16 日本書紀通証 十二
宝暦12年(1762) 亀山市歴史博物館
宝暦12年に刊行された『日本書紀通証』において、谷川士清は、「能褒野陵」の場所と名称について述べています。場所は、延喜諸陵寮式の引用と度会延佳の長世郷の曠野の陵墓の中にあるという説(『鼈頭古事記』)を引用しています。名称は、「多気比塚」と俗称されているが、建部の転訛によるものだ、とします。つまり、谷川は、長瀬神社境内の武備塚を能褒野だと考えていました。
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17 古事記伝 巻二十八
寛政2年(1790)〜文政5年(1822) 本居宣長記念館
寛政2年から文政5年に刊行された、本居宣長が著した『古事記』の注釈書です。宣長は、鈴鹿郡の北方は大半が野であり、広々とした曠野のあるひとつづきの大野となっており、その野の名前が能煩野であると述べています。
巻二十九では、能煩野の候補地を検討しています。第一候補を白鳥塚と考え谷川士清も同意見であるとし、その他、武備塚・二子塚・丁子塚(亀山市田村町・能褒野王塚古墳)にも検討を加えています。
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18 書紀集解 第五本
江戸時代後期 西尾市岩瀬文庫
文化(1804〜1818)初年に刊行されたと考えられる『書紀集解』において、河村秀根は、延喜諸陵寮式と度会延佳の長世郷の曠野の陵墓の中にあるという説(『鼈頭古事記』)を引用しています。これは、谷川士清の『日本書紀通証』と同見解です。
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決定までの三候補地
①白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)
白鳥塚[遺跡名:白鳥塚1号墳](鈴鹿市石薬師町,加佐登神社北西)
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19 陵墓志
幕末〜明治時代 西尾市岩瀬文庫
竹口尚重による写本。竹口は、『日本書紀』に基づき日本武尊の略歴を示した後、墓の場所を考察しています。墓は、馬の鬣状であり、周囲に堀があるも頂上に樹木がないという形状、周辺に5つの小塚があることから、白鳥塚であると述べています。本居宣長・萱生由章・村田橋彦らが同意見であると紹介しています。
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20 首註陵墓一隅抄
嘉永7年(1854) 西尾市岩瀬文庫
津久井清影による天皇・皇族らの陵墓所在地の考証。能褒野墓は、白鳥塚か武備塚のいずれかであると考えています。ただし、武備塚の場所は、菰野から亀山の間にある水原村にあると記していますが、武備塚は長沢村にあることから、何らかの誤記ではないかと思われます。
また、白鳥塚は、大和国葛上郡冨田村(日本武尊琴引原白鳥陵・奈良県御所市)と河内国丹南郡野々上村(大阪府羽曳野市)、さらに熱田明神(熱田神宮・愛知県名古屋市)にもあることを記しています。
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21 諸陵周垣成就記
江戸時代後期 西尾市岩瀬文庫
細井知慎の編さんによる歴代天皇陵の所在等の考証。江戸幕府の修陵事業において作成されました。
日本武尊陵図は、伴信友(本居宣長没後の門人)によるもので、白鳥塚を描いています。「陵、高十八間、東西廿五間、南面也、今モ此辺ヨリ壺甕ノ類、出ル也」と注記しています。
また、「白鳥之陵」として、古市郡古市村(白鳥陵古墳・大阪府羽曳野市)も記録しています。
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22 陵図脱漏 下
江戸時代後期〜明治時代初期 伊藤家
細井知慎の編さんによる『諸陵周垣成就記』(出品番号21)を写し、三分冊としたものです。
西尾市岩瀬文庫本と同内容ですが、白鳥塚南西にある「尊古跡」については、描いているものの注記はないという違いがあります。
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23 日本武尊陵(『東海道名所図会 巻二』)
寛政9年(1797) 亀山市歴史博物館
『東海道名所図会』の「日本武尊陵」は、庄野宿の項目に記され、白鳥塚を描いています。挿絵は、樹木の本数や人々が描かれていることなどに違いはあるものの、『諸陵周垣成就記』(出品番号21)に近似しています。また、秋里籬島による解説文も、同じく『諸陵周垣成就記』の注記を参考に記されています。
秋里は、『東海道名所図会』の解説文の最初の立項を「草薙御剣」としています。三種の神器である草薙剣に注目するという姿勢は、秋里の独自性を感じさせます。
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24 書画五拾三駅 伊勢庄野白鳥塚遠景
明治5年(1872) 国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305690)
浮世絵師、歌川芳虎の作品。
道を尋ねる旅人の一団と答える地元の女性かと思われる人々が描かれています。その人々の背後に森が見えています。これが白鳥塚です。江戸時代末期の白鳥塚は、一見して森のような外見となっていた様子がうかがえます。
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25 勢陽五鈴遺響 鈴鹿郡
明治36年(1903) 亀山市歴史博物館
天保4年(1833)に、郷土史家の安岡親毅が記した伊勢国の歴史書。『日本書紀』『古事記』『陵墓志』『諸陵周垣成就記』などの諸本を引用した後、自説を述べています。安岡は、白鳥塚が能褒野墓だとしますが、日本武尊が葬られた後に白鳥となって飛び立ったことから、改葬されたと考えています。最初の埋葬地が二子塚、改葬地が白鳥塚だと述べます。
また、丁子塚は、天正12年(1584)7月の峯城の戦いで亡くなった武将の埋葬地であると述べています。なお、その他にも、記紀それぞれに登場する日本武尊が白鳥となって飛んでいった、河内国志幾、倭国琴弾原、河内国旧市邑の場所についても考察しています。
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②武備塚(鈴鹿市長澤町)
武備塚[遺跡名:武備塚1号墳](鈴鹿市長澤町,長瀬神社社殿後方)
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26 奉納伊勢国能褒野日本武尊神陵請華篇
明和6年(1769) 本居宣長記念館
建部綾足の著作。建部は、片歌を唱導し特に日本武尊を尊び、武備神社が「倭建尊のみささき」であると考えました。そこで、社の前に歌碑を建立したいと述べます。
本書は明和6年の作であり、現在も長瀬神社(前・武備神社)境内に残る歌碑(車塚)が建立されたのは翌7年のことです。
車塚(長瀬神社境内)(鈴鹿市長澤町)
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27 〈三重県指定文化財〉伊勢国鈴鹿郡第六大区四之小区長沢村武備御墓
明治時代前期 三重県
明治時代の武備塚の絵図。貼紙で武備塚とその兆域(墓の区域)、車塚の大きさを記しています。
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28 武備神社記
明治時代 田上家
日本武尊を主祭神とする武備神社(長瀬神社に合祀)の縁起。なかでも、景行天皇53年秋8月の記事として、景行天皇による日本武尊平定地の巡幸を記したうえで、能褒野を実検した天皇が、さらに高く大きくし、天皇陵と同様にし、前に神社を設けよ、と命じたことを記すのは興味深い部分です。高く大きくした結果、「山陵高三丈二尺、周遶三十丈余」が能褒野陵の大きさとなったと記録しています。
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29 〈亀山市指定文化財〉半田写本九々五集 巻第一・巻第六中
元禄15年(1702) 亀山市歴史博物館
亀山領内の大庄屋、打田権四郎昌克が領内86か村のことがらについてまとめた記録。巻第一の城地・年譜部には、武部墓の項に、能褒野の記述があります。所在地は長沢村北鞠野、大きさは「高二丈許、周廻二十五丈余」と記録します。巻第六中の古新高・所務部には、鈴鹿郡長沢村の項に、同じく武部墓の記述があり、「高サ三間、廻リ四拾壱間」と大きさを記し、ここが能褒野墓であり、日本武尊の葬祭が行われた地であるとします。
のちには、亀山城主板倉家・石川家による武備塚整備が行われました。
半田写本九々五集 巻第一
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半田写本九々五集 巻第一
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半田写本九々五集 巻第六中
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③二子塚(鈴鹿市長澤町)
二子塚[遺跡名:双児塚1号墳](鈴鹿市長澤町)
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30 取調書(三重県鈴鹿郡深伊沢村大字長沢二児塚)
明治28年(1895) 田上家
明治28年5月28日に長瀬神社神職の田上䦭太によって提出された二児塚を日本武尊墓とする意見書。
明治時代初めに、羽田収蔵と先代の田上陽綱により二児塚説を上申したところ、度会県学校教授の八羽石男が賛同し、亀山藩の大参事近藤幸殖からの賛助もあったという亀山藩による整備の経緯を記すことは注目されます。
巻末の「二児塚全景見取図」には、参道があるため、明治3年の亀山藩整備後の姿とみられます。
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31 二子塚整備図
明治3年(1870) 亀山市歴史博物館
亀山藩知事石川成之は、亀山藩独自の政策として日本武尊墓の整備を推進します。本図は、明治3年7月、度会県管下の学校教授、八羽石男の説により、二子塚を整備したことを神祇官に伝える文書(出品番号32)に添付された絵図面の控とみられます。整備では、新たな道の敷設、従前道の拡幅、塚周囲への竹やらいの設置を行っています。
また、絵図によれば、整備は現在の双児塚古墳群のうち1基のみを対象としており、双児塚1号墳を能褒野墓と考えたようです。
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32 日本武尊白鳥陵実検につき報告書
明治3年(1870) 亀山市歴史博物館
明治3年7月、度会県管下の学校教授、八羽石男の説により、二子塚を整備したことを神祇官に伝える文書の控です。
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33 〈三重県指定文化財〉伊勢国鈴鹿郡能褒野倭建命御墓略画図
明治12年(1879) 三重県
亀山藩による整備後の二子塚のようすが描かれています。塚の周囲には、明治3年に設けられた竹やらいが廻っています。
また、明治3年の「二子塚整備図」(出品番号31)と同様、延喜式に基づくかのように、圓満寺持・真福寺持・深廣寺持の各々に「守戸三烟」が設定されています。
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決定前の能褒野王塚古墳
丁子塚(亀山市田村町)
丁子塚[遺跡名:能褒野王塚古墳](亀山市田村町)
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34 古事記伝草稿 巻二十八
寛政元年(1789) 本居宣長記念館
寛政元年、本居宣長は60歳のとき、『古事記伝』刊行の尽力者に会うため名古屋へ向かいました。その帰路、鈴鹿郡の各所を探索しており、そのひとつが能煩野でした。本稿は、宣長自身による能煩野探索の成果です。
宣長は、武備塚・丸山(白鳥塚)・二子塚と丁子塚に足を運んでいます。丁子塚は、能褒野王塚古墳のことですが、実見した宣長は、前方部の存在と周辺の古墳群を確認し、実際に古墳を見ることはできなかったものの、陵墓の形態であることを認めています。ただし、4か所のいずれも能煩野と決しがたい、との結論となっています。
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能褒野墓の決定 ―明治9年―
①白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)
35 竃山能褒野両墓処分方之儀ニ付伺(『太政官 公文録』明治9年第47巻)
明治9年(1876) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:公01775100) (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000108871)
明治8年(1875)12月5日、教部大輔宍戸璣から太政大臣三条実美宛てに白鳥塚が能褒野であることから、墓掌丁を設置したい旨の伺が提出されます。伺に対し、翌9年1月22日に、そのとおりにするよう達がありました。
この達があった時点で、白鳥塚が、能褒野墓であるという認識ができあがっていたのであろうと考えられます。
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36 能褒野図(「竃山能褒野両墓処分ノ儀ニ付伺」『太政官 公文録』明治9年第47巻)
明治9年(1876) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:公01775100) (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000108871)
「竃山能褒野両墓処分方之儀ニ付伺」(出品番号35)の明治8年12月5日付伺に、教部省官員が巡回検査を行い、勘註と絵図面を作成したことが記されています。本絵図はその控とみられます。
絵図では、2つの山が描かれ、手前が日本武尊の笠を納めたという御笠殿、奥が御墓とされています。明治時代初期の白鳥塚は、小山のような姿で大きな松が1本生えていたようです。
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37 〈三重県指定文化財〉日本武尊御墓反別六畝九分但周囲百間直高四間
明治9年(1876) 三重県
明治9年1月22日、白鳥塚が初めに日本武尊御墓と決定されました。そこで、同年2月14日に白鳥塚を測量、翌15日に社寺調査掛へ提出された報告の控とみられます。
絵図によれば、白鳥塚は野地と墓域からなり、墓域の面積は反別2反6畝9分、鈴鹿郡第六大区三小区の石薬師村・高宮村・上田村・上野村の入会地でした。
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38 日本武尊墓白鳥塚決定文書(三重県史稿 政治部 祭典(明治5-12年))
明治9年(1876) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:府県史料三重) (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M2007041211403951154)
明治9年(1876)1月22日、教部省により白鳥塚が「日本武尊御墓」として決定されたことが記録されています。
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能褒野墓の決定―明治12年―
②丁子塚(亀山市田村町)
丁子塚[遺跡名:能褒野王塚古墳](亀山市田村町)
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39 能褒野墓実検勘註
明治6年(1873)・10年(1877) 宮内庁宮内公文書館
明治10年12月、内務省六等属の大澤清臣によって記された、新たに名越村の「王墓」を候補地とする旨の勘註の写しとみられます。大澤の勘註にあたっては、同年3月に、何者かからの建議を受けた教部省からの指示を受け、第六大区第二小区と田村の戸長と用掛等からの古墳に関する調査結果を添えた上申書を参考にしたとみられます。大澤は勘註にあたり、丁子塚が能褒野墓である理由として、①前方後円墳で当時の土壺が露出すること、②域外に陪冢(臣下の墓,大型古墳を主墳とした場合の近接する小型古墳)が散在すること、③塚の所在地の字名「女カ坂」が『古事記』の内容に合致すること、④南を流れる御贄川が『寛平熱田縁起』に合致すること(現在、墓の南には安楽川、西には御幣川が流れている。)、⑤塚の所在する名越村が古代の長瀬郷域内であることは、『寛平熱田縁起』にある「能知瀬」が転訛して「長瀬」となったこと(出品番号40)、の5点をあげています。
あわせて、白鳥塚・二子塚が能褒野墓ではない理由も述べ、「王墓」(丁子塚)が能褒野墓で異論なし、とまとめています。
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40 参考熱田大神縁起
江戸時代後期 伊藤家
「能褒野墓実検勘註」(出品番号39)で、大澤清臣が、白鳥塚から丁子塚へと能褒野墓を改定すべきとした根拠のひとつです。
すなわち、塚の所在地である長瀬郷が、「能知瀬」の転訛であることを記しています。
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41 〈三重県指定文化財〉丁子塚改定に付実測絵図面添付の上伺うべき旨達書(日本武尊御墓修繕書類)
明治12年(1879) 三重県
明治12年10月31日に宮内卿徳大寺実則名で出された三重県宛の命令書の写。日本武尊能褒野墓は、白鳥塚に決定していたものの、詮議によって取り消しとなり、田村の名越の丁子塚に改定されたため、兆域を確認し実測、絵図面を提出するよう求めています。大澤清臣による明治10年末の勘註(出品番号39)から約2年後、丁子塚を能褒野墓と決定したことがうかがえます。
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42 陵墓録
明治14年(1881) 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号:144-0207) (https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F1000000000000050962)
陵墓の場所と決定の年代を記録しています。日本武尊能褒野墓の項目には、「伊勢国鈴鹿郡田村之内名越村」にあるとされており、丁子塚に決定されたことが記されています。
また、決定年代を朱書しており、「明治九年一月決定」、「同十二年十月改定」としていますので、明治9年に白鳥塚に決定、同12年に丁子塚に改定されたことが明確にされています。
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43 陵墓一覧
明治13年(1880) 本居宣長記念館
宮内省御陵墓懸の編さんによる、明治13年4月以前に確定した陵墓の一覧。日本武尊能褒野墓は、明治12年に決定したことから、「景行皇子 日本武尊墓 鈴鹿郡名越村」と記されます。その他の日本武尊陵は、大和国と河内国に掲載されるものの、いまだ決定していなかったため、所在地は明記されていません。
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