(1)編さん
『日本書紀』の編さんは、天武天皇10年(681)に天武天皇の命によって始まり、約40年後の養老4年(720)に完成し、元正天皇に奏上されました。
その編さん過程は明らかではありませんが、12名の諸王・豪族を集めて帝紀・旧辞の整理を行ったことがその始まりと考えられます。編さんにあたっては、当初の帝紀・旧辞に加え、新たに十八氏族からの墓記の収集が行われました(『日本書紀』持統天皇5年(691)8月辛亥(13)条)。
編さん者は、完成時にはその筆頭が舎人親王でした。天武天皇の第三皇子である舎人親王は、推進者たるべき人物であったといえます。一方、編さん人員について、具体的に明らかなのは、当初の12名のみです。しかし、40年もの歳月をかけた編さん事業であったことから、編さん途次で亡くなった人物もおり、人員の変化が想定されます。唯一明らかなのは、和銅7年(714)に新たに2名が加わったことです(『続日本紀』和銅7年2月戊戌(10)条)。
完成した『日本書紀』は、紀三十巻と系図一巻からなっていました。しかし、現存するのは紀三十巻のみで、系図は伝わっていません。紀とは天皇の歴史を記載した部分のことで、まさに現在、『日本書紀』として目にしている歴代天皇ごとにまとめられた形式のことです。つまり、編さん当初から『日本書紀』は三十巻あり、現在も同じ巻数が伝えられていることになります。しかし、それは編さん当初のままではなく、様々な写本を校訂し整えられたものです。編さん当初から長く『日本書紀』が書き写されたことによって、三十巻の『日本書紀』が現代に伝えられているというわけです。
1 日本書紀 巻第二十九
寛文9年(1669) 田上家
『日本書紀』天武天皇10年(681)3月丙戌(17)条に、天武天皇が諸王・豪族を集め「帝紀及び上古の諸事を記し定め」させ、記録したとあります。これが、『日本書紀』編さんの始まりと考えられます。
ここに登場する「帝紀及び上古の諸事」とは、いわゆる「帝紀」と「旧辞」のことで、帝紀は天皇ごとの記録、旧辞は説話や伝承を含む神話であろう、と考えられてきました。同時期の編さんである『古事記』の序文には、天武天皇が、諸家に伝わる「帝紀と本辞」がすでに真実と異なっていることから、稗田阿礼に「帝皇日継と先代旧辞」とを誦み習わせたと、その編さんの始まりを記録しており、やはり二書が基本となっています。二書の具体的な内容は不明ですが、『日本書紀』、『古事記』どちらも、7世紀に伝わっていた記録をもとに編さんが進められました。
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2 続日本紀 巻第八
明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
『続日本紀』養老4年(720)5月癸酉(21)条に、「一品舎人親王、勅を奉り、日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上す。紀卅巻・系図一巻なり。」とあり、完成したことを報告しています。完成時には、歴史書部分が三十巻、さらに系図が一巻作られていました。現在、『日本書紀』は、巻一から巻三十までが伝わり、系図については現存していません。
また、完成の報告では書名を「日本紀」と記しています。書名が「日本紀」であったか「日本書紀」であったか諸説あり、現在も結論をみていません。
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3 日本書紀 巻第一
寛文9年(1669) 田上家
『日本書紀』は、天武天皇10年(681)から養老4年(720)まで、約40年の歳月をかけて編さんされました。冒頭に序文や上表文は付属せず、巻第一から始まります。巻第一は神代上と立項され、次巻の神代下とあわせて二巻をかけて神代について語っています。
本書の多数の書き込みには、『釈日本紀』や『日本書紀纂疏』などを参照したことがうかがえます。また内題下の朱印からは、本書が度会高彦の蔵書であったとみられます。度会は、『釈日本紀』の書写を享保5年(1720)に行った人物で、度会写本は、宮内庁図書寮文庫に残されています。
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