本多俊次(ほんだとしつぐ)
寛永(かんえい)13年(ねん)(1636年(ねん))、三宅康盛(みやけやすもり)の後(あと)に亀山城主(かめやまじょうしゅ)として、三河国(みかわのくに)西尾(にしお)(愛知県(あいちけん)西尾市(にしおし))からやってきたのが本多俊次(ほんだとしつぐ)だ。彼(かれ)は、五万石(ごまんごく)の大名(だいみょう)として亀山領(かめやまりょう)を治(おさ)めることになったよ。本多俊次(ほんだとしつぐ)のときには、3つの大(おお)きな出来事(できごと)があったんだ。慶安(けいあん)4年(ねん)(1652年(ねん))、本多俊次(ほんだとしつぐ)は、近江国(おうみのくに)膳所(ぜぜ)へ移(うつり)り膳所城主(ぜぜじょうしゅ)になったよ。その後(ご)本多家(ほんだけ)は、明治(めいじ)までずっと膳所城主(ぜぜじょうしゅ)だったんだ。1ヵ所(かしょ)がものすごく長(なが)いね。
3つの大(おお)きな出来事(できごと)
1つめは、亀山城(かめやまじょう)を大(おお)きくする工事(こうじ)をしたこと。
2つめは、この新(あたら)しいかたちの亀山城(かめやまじょう)の絵図(えず)を正保(しょうほう)元年(がんねん)(1644年(ねん))に幕府(ばくふ)に提出(ていしゅつ)したこと。これはいまも使(つか)っているよ。その絵図(えず)をみてみよう。
3つめは、寛永(かんえい)13年(ねん)(1636年(ねん))以後(いご)、亀山城(かめやまじょう)に付(つ)く領地(りょうち)が八十六ヵ村(はちじゅうろっかそん)で五万石(ごまんごく)に定(さだ)まったことだよ。亀山城(かめやまじょう)の領地(りょうち)と村(むら)が定(さだ)まるということは、周辺(しゅうへん)にいる大名(だいみょう)の領地(りょうち)と村(むら)も定(さだ)まってきたことも意味(いみ)するよ