亀山こども歴史館トップページ 亀山城(かめやまじょう)と宿場(しゅくば)三宅康信(みやけやすのぶ)・康盛(やすもり)

[亀山城と宿場]亀山城(かめやまじょう)は、室町時代(むろまちじだい)から江戸時代(えどじだい)を通(つう)じて、亀山(かめやま)の政治(せいじ)や経済(けいざい)の中心(ちゅうしん)でした。このため、城(しろ)はまちの中心(ちゅうしん)にあってよく目立(めだ)つようにつくられています。どんな特長(とくちょう)があるのかを調(しら)べてみましょう。

三宅康信(みやけやすのぶ)・康盛(やすもり)

康信(やすのぶ)と康盛(やすもり)は親子(おやこ)だ。そして、康信(やすのぶ)の父(ちち)は、亀山城代(かめやまじょうだい)だった康貞(やすさだ)だ。三宅家(みやけけ)にとっては、二度目(にどめ)の亀山(かめやま)だ。前(まえ)は城代(じょうだい)だったけど、今度(こんど)は一万二千石(いちまんにせんごく)の城主(じょうしゅ)として亀山領(かめやまりょう)を治(おさ)めるんだ。康信(やすのぶ)が三河国(みかわのくに)挙母(ころも)(愛知県(あいちけん)豊田市(とよたし)元城町(もとしろまち)付近(ふきん))からやってきたのは、元和(げんな)5年(ねん)(1619年(ねん))だ。子(こ)どもの康盛(やすもり)は、寛永(かんえい)9年(ねん)(1632年(ねん))に父(ちち)の跡(あと)を継(つ)いで、寛永(かんえい)13年(ねん)(1636年(ねん))に再(ふたた)び三河国(みかわのくに)挙母(ころも)領主(りょうしゅ)として移(うつ)っていったんだ。挙母(ころも)と亀山(かめやま)を往復(おうふく)した感(かん)じだね。康信(やすのぶ)、康盛(やすもり)が亀山城主(かめやまじょうしゅ)だったときに大(おお)きな出来事(できごと)があったんだよ。

あの徳川家康(とくがわいえやす)、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)が、なんと亀山城(かめやまじょう)に宿泊(しゅくはく)していた慶長(けいちょう)8年(ねん)(1603年(ねん))、徳川家康(とくがわいえやす)は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)を任命(にんめい)されて将軍(しょうぐん)になったんだ。任命(にんめい)の儀式(ぎしき)は、京都御所(きょうとごしょ)でおこなわれたよ。京都(きょうと)から江戸(えど)へ帰(かえ)る時(とき)に亀山城(かめやまじょう)で泊(と)まったよ。家康(いえやす)はその後(ご)も慶長(けいちょう)10年(ねん)(1605年(ねん))、元和(げんな)元年(がんねん)(1615年(ねん))の2回(かい)亀山城(かめやまじょう)に泊(と)まっているよ。この時(とき)の亀山城主(かめやまじょうしゅ)は、関一政(せきかずまさ)だ。次(つぎ)に二代将軍(にだいしょうぐん)秀忠(ひでただ)は、元和(げんな)9年(ねん)(1623年(ねん))と寛永(かんえい)3年(ねん)(1626年(ねん))、三代将軍(さんだいしょうぐん)家光(いえみつ)は、元和(げんな)9年(ねん)(1623年(ねん))、寛永(かんえい)3年(ねん)(1626年(ねん))、寛永(かんえい)11年(ねん)(1634年(ねん))の3回(かい)(と)まったよ。とても大変(たいへん)だったんだろうな。


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