関一政(せきかずまさ)
江戸時代(えどじだい)より前(まえ)は、関家(せきけ)は鈴鹿郡(すずかぐん)を地元(じもと)にして力(ちから)をもっていたんだ。関氏(せきし)は亀山城(かめやまじょう)、その分家(ぶんけ)は四家(よんけ)に別(わか)れていたよ。分家(ぶんけ)の名前(なまえ)と城(しろ)の名前(なまえ)は、次(つぎ)のとおりだよ。鹿伏兎家(かぶとけ)は鹿伏兎城(かぶとじょう)(加太市場(かぶといちば))、峯家(みねけ)は峯城(みねじょう)(川崎町(かわさきちょう))、神戸家(かんべけ)は神戸城(かんべじょう)(鈴鹿市神戸(すずかしかんべ))、国府家(こうけ)は国府城(こうじょう)(鈴鹿市国府(すずかしこう))。でもさまざまな事情(じじょう)で、蒲生氏郷(がもううじさと)と東北(とうほく)へ移(うつ)り、そこで領主(りょうしゅ)をしていたんだ。その後(ご)、また領地(りょうち)をしばしば移(うつ)り、慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600年(ねん))に再(ふたた)び亀山城主(かめやまじょうしゅ)として三万石(さんまんごく)の領地(りょうち)を治(おさ)めることになったんだ。慶長(けいちょう)15年(ねん)(1610年(ねん))に、今度(こんど)は伯耆国(ほうきのくに)黒坂(くろさか)(鳥取県(とっとりけん)日野郡日野町黒坂(ひのぐんひのちょうくろさか))の領主(りょうしゅ)になるため亀山(かめやま)の地(ち)を離(はな)れたんだよ。でも黒坂(くろさか)で関家(せきけ)は家臣(かしん)らのもめごとがおこり、幕府(ばくふ)によって大名(だいみょう)という身分(みぶん)も城(しろ)も領地(りょうち)も取(と)り上(あ)げられてしまったので、大名(だいみょう)としての関家(せきけ)はなくなったんだ。