亀山城跡(かめやまじょうあと)の再利用(さいりよう)
城(しろ)が廃止(はいし)されたあと、亀山城(かめやまじょう)あとはさまざまな使(つか)われ方(かた)をして、明治時代以後(めいじじだいいご)の亀山(かめやま)の中心(ちゅうしん)になってゆきました。江戸時代(えどじだい)の曲輪(くるわ)のあとごとに明治時代(めいじじだい)から後(あと)の使(つか)われ方(かた)をみてみましょう。
本丸(ほんまる)あと
公園(こうえん)・神社(じんじゃ)(1908年(ねん)から亀山神社(かめやまじんじゃ))となり現在(げんざい)に至(いた)っています。公園(こうえん)は、学校(がっこう)の運動場(うんどうじょう)としても使(つか)われました。
二之丸(にのまる)あと
大部分(だいぶぶん)が学校(がっこう)の敷地(しきち)として使(つか)われました。一部(いちぶ)は住宅地(じゅうたくち)となりました。1958年(ねん)(昭和(しょうわ)33年(ねん))に南半分(みなみはんぶん)に市役所(しやくしょ)が建(た)てられて現在(げんざい)にいたっています。
西出丸(にしでまる)あと
神社(じんじゃ)(1908年(ねん)から亀山神社(かめやまじんじゃ))の一部(いちぶ)と、藩主(はんしゅ)であった石川家(いしかわけ)の屋敷(やしき)となっていました。1960年(ねん)(昭和(しょうわ)35年(ねん))市民会館(しみんかいかん)が建(た)てられ、その後(ご)テニスコートや駐車場(ちゅうしゃじょう)となり現在(げんざい)にいたっています。
東三之丸(ひがしさんのまる)あと
住宅地(じゅうたくち)と畑(はたけ)となっていましたが、1929年(ねん)(昭和(しょうわ)4年(ねん))から1983年(ねん)(昭和(しょうわ)58年(ねん))までその一部(いちぶ)が亀山幼稚園(かめやまようちえん)がおかれ、そのあとが市役所駐車場(しやくしょちゅうしゃじょう)となって現在(げんざい)にいたっています。
西之丸(にしのまる)あと
住宅地(じゅうたくち)のほかに、藩校明倫舎(はんこうめいりんしゃ)のあとは1879年(ねん)(明治(めいじ)12年(ねん))に鈴鹿郡(すずかぐん)(後(のち)に鈴鹿地方(すずかちほう))の役所(やくしょ)となり、その後(あと)は一部(いちぶ)が亀山実業学校(かめやまじつぎょうがっこう)に、現在(げんざい)は亀山中学校(かめやまちゅうがっこう)の敷地(しきち)となっています。また、1949年(ねん)(昭和(しょうわ)24年(ねん))におかれた日本専売公社(にほんせんばいこうしゃ)亀山出張所(かめやましゅっちょうじょ)のあとは、西(にし)の丸(まる)庭園(ていえん)、城西(じょうさい)コミュニティになりました。