亀山城(かめやまじょう)のとりこわし
1873年(ねん)(明治(めいじ)6年(ねん))、明治政府(めいじせいふ)は、全国(ぜんこく)の城(しろ)の中(なか)で残(のこ)すことを決(き)めた城以外(しろいがい)の城(しろ)はこわしてもよいとの命令(めいれい)をだしました。このため亀山城(かめやまじょう)も建物(たてもの)や城(しろ)の土地(とち)を欲(ほ)しい人(ひと)に売(う)りはらい、城(しろ)はこわされてゆきました。
亀山城(かめやまじょう)の建物(たてもの)などの売(う)りはらい
亀山城(かめやまじょう)の土地(とち)、建物(たてもの)、石垣(いしがき)の石(いし)のすべてが売(う)りはらわれました。土塁(どるい)をくずしたり堀(ほり)を埋(う)めたりして亀山城(かめやまじょう)のあとは学校(がっこう)や役所(やくしょ)、住宅地(じゅうたくち)にすがたをかえてゆきました。このうち、石坂門多門櫓(いしざかもんたもんやぐら)は西町(にしまち)のしょうゆ屋(や)の蔵(くら)に、米蔵(こめぐら)は関警察署(せきけいさつしょ)を建(た)てる時(とき)に材料(ざいりょう)として使(つか)われました。
今(いま)も残(のこ)る亀山城(かめやまじょう)の建物(たてもの)
売(う)りはらわれた建物(たてもの)のうち、三重櫓(さんじゅうやぐら)の柱(はしら)などは本宗寺(ほんしゅうじ)(市ヶ坂町(いちがさかちょう))の本堂(ほんどう)、二之丸御殿(にのまるごてん)の玄関(げんかん)と一番(いちばん)大(おお)きな建物(たてもの)(大書院(だいしょいん))は遍照寺(へんじょうじ)(西町(にしまち))の本堂(ほんどう)として今(いま)も残(のこ)っています。
遍照寺(へんじょうじ)