亀山こども歴史館トップページ 亀山城(かめやまじょう)と宿場(しゅくば)亀山県庁(かめやまけんちょう)と大参事(だいさんじ)・権大参事(ごんのだいさんじ)

[亀山城と宿場]亀山城(かめやまじょう)は、室町時代(むろまちじだい)から江戸時代(えどじだい)を通(つう)じて、亀山(かめやま)の政治(せいじ)や経済(けいざい)の中心(ちゅうしん)でした。このため、城(しろ)はまちの中心(ちゅうしん)にあってよく目立(めだ)つようにつくられています。どんな特長(とくちょう)があるのかを調(しら)べてみましょう。

亀山県庁(かめやまけんちょう)と大参事(だいさんじ)・権大参事(ごんのだいさんじ)

 明治(めいじ)2年(ねん)(1869年(ねん))に行(おこな)われた版籍奉還(はんせきほうかん)によって、明治政府(めいじせいふ)による藩(はん)ができてからわずか2年(ねん)で、明治政府(めいじせいふ)は、藩(はん)を廃止(はいし)して、県(けん)を設置(せっち)することにしました。これにより、東京府(とうきょうふ)・京都府(きょうとふ)・大阪府(おおさかふ)以外(いがい)の府藩(はんぷ)は、すべて県(けん)になりました(廃藩置県(はいはんちけん))。
 これにより、明治(めいじ)2年(ねん)(1869年(ねん))からの亀山藩(かめやまはん)は明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん))7月(がつ)に亀山県(かめやまけん)となり、藩知事(はんちじ)の職(しょく)はなくなりました。藩知事(はんちじ)にかわって、大参事(だいさんじ)が亀山県(かめやまけん)の事務(じむ)を行(おこな)うことになりました。 
 明治政府(めいじせいふ)は藩知事(はんちじ)を東京(とうきょう)で住(す)むように命(めい)じたので、石川成之(いしかわなりゆき)も16歳(さい)で亀山(かめやま)から東京(とうきょう)へ移(うつ)り住(す)むことになりました。また、新(あら)たに亀山県(かめやまけん)の事務(じむ)を行(おこな)う大参事(だいさんじ)は、江戸時代(えどじだい)に家老(かろう)の一人(ひとり)であった近藤幸殖(こんどうさちたね)で、大参事(だいさんじ)の補佐(ほさ)をする権大参事(ごんのだいさいんじ)には、同(おな)じ家老(かろう)の一人(ひとり)であった加藤伴彦(かとうともひこ)があたりました。
 そして、大参事(だいさんじ)と権大参事(ごんのだいさんじ)は、亀山(かめやま)と東京(とうきょう)にわかれ、明治政府(めいじせいふ)のめまぐるしく変(か)わる方針(ほうしん)などを東京(とうきょう)と亀山間(かめやまかん)の往復書簡(おうふくしょかん)でやりとりしていました。
 亀山県庁(かめやまけんちょう)は、二之丸(にのまる)においた亀山藩庁(かめやまはんちょう)をそのまま使(つか)っていました。また、備中国中津井(びっちゅうのくになかつい)に置(お)いた亀山藩支庁(かめやまはんしちょう)は、亀山県(かめやまけん)の支庁(しちょう)になっていました。
 しかし、明治政府(めいじせいふ)は、再(ふたた)び廃藩置県(はいはんちけん)を行(おこな)い、今度(こんど)は県(けん)の統合(とうごう)を行(おこな)いました。これにより、亀山県(かめやまけん)は、わずか4ヶ月(かげつ)ほどでなくなり、安濃津県(あのつけん)に含(ふく)まれることになりました。また、備中国(びっちゅうのくに)の亀山県(かめやまけん)は、備中国(びっちゅうのくに)の深津県(ふかつけん)になりました。

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