亀山藩庁(かめやまはんちょう)と藩知事(はんちじ)
明治(めいじ)2年(ねん)(1869年(ねん))、明治政府(めいじせいふ)は、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)がこれまで治(おさ)めていた領地(りょうち)と領民(りょうみん)を天皇(てんのう)へ返(かえ)させました(版籍奉還(はんせきほうかん))。これにより、江戸幕府(えどばくふ)によって認(みと)められた大名(だいみょう)の領地(りょうち)が、明治政府(めいじせいふ)によって認(みと)められることになったため、明治政府(めいじせいふ)は、これまでの領主(りょうしゅ)(城主(じょうしゅ))をやめ、藩知事(はんちじ)を任命(にんめい)しました。
亀山藩(かめやまはん)では、江戸時代(えどじだい)亀山藩(かめやまはん)最後(さいご)の領主(りょうしゅ)(城主(じょうしゅ))であった石川成之(いしかわなりゆき)が、新(あら)たに、亀山藩知事(かめやまはんちじ)となりました。
藩庁(はんちょう)は、亀山城内(かめやまじょうない)の二之丸(にのまる)に建(た)っている二之丸御殿(にのまるごてん)の一部(いちぶ)だけを残(のこ)して使(つか)いました。また、江戸時代(えどじだい)の亀山領(かめやまりょう)であった備中国(びっちゅうのくに)1万石分(まんごくぶん)の領地(りょうち)(代官所(だいかんしょ)は中津井村(なかついむら)にありました)は、ひきつづき亀山藩(かめやまはん)として、備中国阿賀郡中津井村(びっちゅうのくにあがぐんなかついむら)に亀山藩支庁(かめやまはんしちょう)を置(お)きました。
津藩知事(つはんちじ)は、津城主(つじょうしゅ)であった藤堂高猷(とうどうたかゆき)、久居藩知事(ひさいはんちじ)は、久居領主(ひさいりょうしゅ)であった藤堂高邦(とうどうたかくに)が任命(にんめい)されました。坂下村(さかしたむら)は、慶応(けいおう)4年(ねん)(1868年(ねん))から明治(めいじ)2年(ねん)(1869年(ねん))8月(がつ)まで大津裁判所(おおつさいばんしょ)(滋賀県(しがけん))から大津県(おおつけん)の管轄(かんかつ)となっていました。