大政奉還(たいせいほうかん)と亀山城(かめやまじょう)
慶応(けいおう)3年(ねん)(1867年(ねん))10月(がつ)、将軍(しょうぐん)徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、政権(せいけん)を天皇(てんのう)へ返(かえ)しました(大政奉還(たいせいほうかん))。朝廷(ちょうてい)は12月(がつ)に、将軍(しょうぐん)が大政(たいせい)の返上(へんじょう)と将軍職(しょうぐんしょく)を辞(や)めることを認(みと)め、幕府(ばくふ)を廃止(はいし)して神武天皇(じんむてんのう)の最初(さいしょ)に立(た)ち帰(かえ)った政治(せいじ)を行(おこな)うことを宣言(せんげん)した王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)をおこないました。
この頃(ころ)の亀山城主(かめやまじょうしゅ)は、文久(ぶんきゅう)2年(ねん)(1862年(ねん))から慶応元年(けいおうがんねん)(1865年(ねん))まで、石川保之助(いしかわやすのすけ)、慶応元年(けいおうがんねん)(1865年(ねん))からは、石川成之(いしかわなりゆき)が城主(じょうしゅ)をつとめていました。
慶応(けいおう)3年(ねん)(1867年(ねん))12月(がつ)、成之(なりゆき)は、家臣(かしん)に対(たい)し、自分(じぶん)のサインである花押(かおう)を披露(ひろう)しました。