(1)交通管理施設
三関は、律令で様々なことが定められていました。管理体制、通行するために必要な書類「過所」について、無断通行した際の罰則などです。律令からは、三関の平常時の役割が、交通管理施設であったといえます。平常時から人々の移動を管理することが、律令国家による支配でした。
19 令義解 巻五
寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
軍防令置関条は、関の守固について定めます。三関は他の関とは別に述べており、特別な関と位置づけています。義解説では、三関を「謂ふこころは、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発等是なり。」とし、三関が伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関の3か所であることを明らかにしています。また、三関は国司が分当して守固することも定めており、鈴鹿関の管理は国司が交替であたることになっていました。
|
20 令義解 巻九
寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
関市令欲度関条は、関の通過について定めます。関を通過するには、「過所」を要します。過所は、通行者の居住する国府もしくは京職で発行された通行許可証です。帰路には、往路の過所に申請書を添えて作成しました。
不法な関の通過や過所の不法な使用は、衛禁律で罰則が定められていました。罰則は、関ごとに差があり三関は最も重いランクです。他の関に比べて三関が重視されていたことの証左のひとつといえます。
|
21 複製 東大寺古文書 伊勢国計会帳
亀山市歴史博物館(原資料:江戸時代、東京国立博物館、撮影:山ア信一氏、写真提供:九州国立博物館)
1年間に伊勢国が発行・受領した書類の一覧の断簡。1年に1度、中央官庁(太政官)で調査するために作成しました。天平8年(736)10月以前に、伊勢国府にて作成・受領した文書と考えられています。作成した書類の中には、1日分の業務として「判給せる百姓の過所廿五紙」があります。1日に25人分の過所を作成したことがわかり、関を通過して移動する人がかなり存在したことがうかがえます。
|
22 続日本紀 巻第六
明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
関の通過に必要であった過所は、当初、木簡が利用されていました。前出の木簡(12・15)は、まさに過所として用いられた木簡と考えられます。
しかし、和銅8年(=霊亀元年、715)、「今より始めて、諸国の百姓、往来の過所に、当国の印を用ゐよ。」と定められ(『続日本紀』霊亀元年5月辛巳朔条)、過所は紙で作成されることとなりました。伊勢国計会帳(21)でも、「過所廿五紙」と紙製であることを明示しています。
|
23 令義解 巻七
寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
公式令過所式条は、過所の様式と発行手続きを定めます。申請理由・通過する関・目的地の国名・名前・同行する従者や家畜などを記入して所管官庁(国府・京職)へ提出し、官庁が許可すると過所となります。
|
三関位置図
|