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凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
4.鈴鹿郡の古代  5.鈴鹿関跡  協力者・参考文献・出品一覧

第3章 鈴鹿関と制度 ―奈良時代の政策―

 三関(さんげん)とは、鈴鹿関(亀山市関町新所)、不破関(ふわのせき)(岐阜県不破郡関ケ原町松尾)、愛発関(あらちのせき)(福井県敦賀市)のことです。これは、軍防令(ぐんぼうりょう)の注釈によります。三関の制度は、律令の様々な条文に規定されています。平常時は交通管理施設として、非常時は関の閉鎖によって交通を遮断する固関(こげん)を行う軍事防衛施設としての役割を果たしたことが見えてきます。
 三関の制度が整えられた大宝律令(たいほうりつりょう)は、唐の永徽律令(えいきりつれい)を母法としています。比較してみると、三関は唐の律令条文には存在せず、一方で日本の律令条文では、他の関よりも重視される特別な存在として規定されているという特徴があります。律令三関は、国家を守るために律令で整備されたとも考えられ、奈良時代の政策の一翼を担ったのではないでしょうか。
 しかし、桓武天皇の治世となった延暦8年(789)には、軍事的な役割よりも平常時の交通阻害が問題視され、停廃の詔が出されます。交通管理施設や軍事防衛施設としての役割を終えたものの、固関は、儀式化し江戸時代まで継続されました。


令義解
令義解

(1)交通管理施設

 三関は、律令で様々なことが定められていました。管理体制、通行するために必要な書類「過所(かしょ)」について、無断通行した際の罰則などです。律令からは、三関の平常時の役割が、交通管理施設であったといえます。平常時から人々の移動を管理することが、律令国家による支配でした。


19 令義解 巻五
   寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 軍防令(ぐんぼうりょう)置関条は、関の守固(しゅこ)について定めます。三関は他の関とは別に述べており、特別な関と位置づけています。義解(ぎげ)説では、三関を「謂ふこころは、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発等是なり。」とし、三関が伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関の3か所であることを明らかにしています。また、三関は国司が分当して守固することも定めており、鈴鹿関の管理は国司が交替であたることになっていました。
令義解 巻五
令義解 巻五


20 令義解 巻九
   寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 関市令(げんしりょう)欲度関条は、関の通過について定めます。関を通過するには、「過所」を要します。過所は、通行者の居住する国府もしくは京職(きょうしき)で発行された通行許可証です。帰路には、往路の過所に申請書を添えて作成しました。
 不法な関の通過や過所の不法な使用は、衛禁律(えごんりつ)で罰則が定められていました。罰則は、関ごとに差があり三関は最も重いランクです。他の関に比べて三関が重視されていたことの証左のひとつといえます。
令義解 巻九
令義解 巻九


21 複製 東大寺古文書 伊勢国計会帳
   亀山市歴史博物館(原資料:江戸時代、東京国立博物館、撮影:山ア信一氏、写真提供:九州国立博物館)
 1年間に伊勢国が発行・受領した書類の一覧の断簡。1年に1度、中央官庁(太政官(だじょうかん))で調査するために作成しました。天平8年(736)10月以前に、伊勢国府にて作成・受領した文書と考えられています。作成した書類の中には、1日分の業務として「判給せる百姓(ひゃくせい)の過所廿五紙」があります。1日に25人分の過所を作成したことがわかり、関を通過して移動する人がかなり存在したことがうかがえます。
複製 東大寺古文書 伊勢国計会帳


22 続日本紀 巻第六
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 関の通過に必要であった過所は、当初、木簡が利用されていました。前出の木簡(12・15)は、まさに過所として用いられた木簡と考えられます。
 しかし、和銅8年(=霊亀元年、715)、「今より始めて、諸国の百姓、往来の過所に、当国の印を用ゐよ。」と定められ(『続日本紀』霊亀元年5月辛巳朔条)、過所は紙で作成されることとなりました。伊勢国計会帳(21)でも、「過所廿五紙」と紙製であることを明示しています。
続日本紀 巻第六


23 令義解 巻七
   寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 公式令(くしきりょう)過所式条は、過所の様式と発行手続きを定めます。申請理由・通過する関・目的地の国名・名前・同行する従者や家畜などを記入して所管官庁(国府・京職)へ提出し、官庁が許可すると過所となります。
令義解 巻七
令義解 巻七


三関位置図
三関位置図

(2)実動 −固関(こげん)

 三関が、真にその機能を果たすのは、非常時の固関ではないかと考えられます。固関とは、関を閉鎖し、交通を遮断するもので、天皇の崩御や反乱など、国家の非常時に行われました。その目的は、反乱者が都から東国へ向かうことを阻止することにありました。固関は、政治的危機を脱して国家の安定を図ろうとするものであり、固関を行う三関は、軍事防衛施設としての機能を果たしていました。


24 令義解 巻一
   寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 職員令(しきいんりょう)大国条では、大国国司の定員・職掌を定めます。伊勢国は大国ですので、本条規定の職務を行います。その職務のひとつとして、三関国は関剗(げんせん)関契(げんけい)を掌りました。義解(ぎげ)説では、関は検問所、剗は土塁や柵などの施設とされ、まさに交通管理施設と軍事防衛施設の両面を持っていたことがわかります。
 さらに、契は令集解(りょうのしゅうげ)編さん者の惟宗直本(これむねのなおもと)の解釈によれば、三関国に二枚与えられ、長官か次官が管理するものでした。これが、固関時に用いられた木契(もっけい)(No.26)にあたります。
令義解 巻一
令義解 巻一


26 複製 固関木契
   亀山市歴史博物館(原資料:宝永6年(1709)、宮内庁書陵部)
 木契は、関の門の開閉、つまり固関と開関(かいげん)の際に使用する正式な使者の証明です。元来一片の木片を半裁した割符であることから、別々に管理されていた割符が合致することにより、正式な使者と証明できました。三関それぞれに木契が作られましたが、鈴鹿関で使用することから「賜伊勢国」と墨書されています。
 本木契の原資料は、宝永6年(1709)6月21日、東山天皇から中御門天皇への譲位の際に行われた固関のために作られました。
複製 固関木契


27 続日本紀 巻第二十五
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 固関の意義が明確となった事例のひとつは、天平宝字8年(764)の恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱の時と考えられます(『続日本紀』天平宝字8年9月乙巳(11)条)。固関が行われ、鈴鹿関の通行も遮断されました。さらに、押勝軍と戦った孝謙上皇(こうけんじょうこう)軍は愛発関(あらちのせき)(福井県敦賀市)の守りを固めることで、押勝軍の越前国への進軍を阻み、結果、勝利をおさめました。
続日本紀 巻第二十五


 コラム 鈴鹿関で固関(こげん)を行う 
〜平常時〜
1.伊勢国に半裁された関契(げんけい)2枚を渡す。
  (『儀式』によれば、関契の左片が渡された。)
2.伊勢国では国守が管理した。
3.伊勢国に渡された関契の対になる関契は、後宮の蔵司(くらのつかさ)が管理した。
  (『儀式』によれば、関契の右片を管理した。)
木契 伊勢国
木契 蔵司
伊勢国 蔵司

〜固関〜
1.固関が命じられる。
2.固関使が任じられる。
3.固関使は蔵司に保管される関契(右片)を持ち出す。
4.固関使は鈴鹿関へ赴き、伊勢国保管の関契(左片)と照合。
5.合致を確かめ、固関。

〜開関〜
1.開関が命じられる。
2.開関使が任じられる。
3.開関使は蔵司に保管される関契(右片)を持ち出す。
4.開関使は鈴鹿関へ赴き、伊勢国保管の関契(左片)と照合。
5.合致を確かめ、開関。
木契 鈴鹿関
鈴鹿関での木契の姿

奈良時代に行われた固関
奈良時代に行われた固関

(3)停廃

 三関は、平常時は交通管理施設として、非常時は固関を行う軍事防衛施設として機能しました。しかし、平常時の交通管理機能がかえって交通を阻害するという理由により、延暦8年(789)に停廃の詔が発せられ、終焉を迎えることになります。非常時の役割よりも、平常時の通行の妨げになることが問題視され、その役割を終えることとなりました。


28 続日本紀 巻第四十
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 延暦8年(789)、桓武天皇により三関の停廃を命ずる勅が出されました(『続日本紀』延暦8年7月甲寅(14)条)。非常時に備えて設置された関が、現在は公私の往来に困難をきたすほど利を失し、時宜に適っていないことを停廃の理由とします。そして、関に備えていた兵器や食糧は国府(鈴鹿関では伊勢国府)へ、館舎は郡衙(ぐんが)(鈴鹿関では鈴鹿郡衙)へ移すこととしました。
続日本紀 巻第四十


25 続日本紀 巻第八
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 最初の固関は、養老5年(721)の元明太上天皇(げんめいだじょうてんのう)崩御に際して行われました(『続日本紀』養老5年12月己卯(7)条)。生前、太上天皇自身が、近侍や五衛府に対し、自らの死に際して警戒を怠らず、不慮の事態に陥ることのないよう述べています。太上天皇の崩御が不安定な政情を生み出す可能性があったことによって固関が行われたのではないかと考えられます。
続日本紀 巻第八


 コラム 明倫館文庫 
 亀山藩は、藩主石川総博(ふさひろ)の治世(安永5年(1776)−寛政8年(1796))に、南崎権現(南崎町)の側の家を家臣の読書場として開き、この読書場を「明倫舎」と名付けました。その後、城内の西之丸に場所を移しました。明治2年(1869)には、「明倫館」が誕生しました。明倫館文庫は、明倫舎・明倫館が収集した和洋漢籍群です。書籍からは、藩校教育の一端が垣間見えてきます。令義解(りょうのぎげ)や延喜式なども明倫館文庫を構成する資料です。


亀山城絵図面
   明治時代 亀山市歴史博物館
 西之丸の西端に「明倫舎」をさして書かれた「明輪舎」(明倫舎の誤記)があります。
亀山城絵図面
亀山城絵図面


朱印「明倫舎」(令義解 巻十)
   寛政12年(1800) 亀山市歴史博物館
朱印「明倫舎」(令義解 巻十)

   


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