(1)現状
鈴鹿関跡では、遺構としては築地塀の基部、遺物としては重圏文軒丸瓦と平瓦・丸瓦および須恵器片や土師器片などを確認しました。遺構・遺物、立地条件、文献史料の記述から、これまでの調査で確認できた遺構は、鈴鹿関の西端を限る築地塀であると考えられます。
この西辺築地塀の北側の一部が国の史跡に指定されました。築地塀の遺構と文献史料をあわせると、築地塀の高さは約3.9m、そして総延長650mを超えると想定しています。西から歩みを進めてきた人々は、鈴鹿関が近づくと巨大な築地塀が続く様を眼前にし、視覚的にも威圧感を覚えたのではないでしょうか。
65 国史跡範囲内出土 市指定文化財 重圏文軒丸瓦(鈴鹿関跡第1次調査) 奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
二重圏文の軒丸瓦。観音山南西麓の第1次調査地で築地塀跡の内側から出土しました。8世紀中頃のものです。瓦当面のヒビから積み上げ技法横置型一本造りで製作されたと考えられます。現在までの発掘調査で出土した唯一の軒丸瓦で、出土量が少ないことから、築地塀の軒先ではなく棟先に鳥衾のように用いた可能性もあります。
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66 重圏文軒丸瓦(長者屋敷遺跡) 奈良時代(8世紀後半) 鈴鹿市考古博物館
伊勢国府で用いられた唯一の三重圏文の軒丸瓦。重圏文の比率が、鈴鹿関跡出土例(65)の圏線とほぼ一致し、さらに内側に一本圏線を足した形状になっています。瓦当面製作に用いられた笵型が、鈴鹿関での利用後、伊勢国府で利用され、その際に新たに内側に一本圏線を足したと考えられます。
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一本造り成形台模式図
67 国史跡範囲内出土 市指定文化財 須恵器片(鈴鹿関跡第1次調査) 奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
平瓶もしくは壺の頸部から肩にかけての部分。8世紀代のもの。鈴鹿関跡では、土器の出土量が少なく、貴重な一点です。
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68 延喜式 巻第三十四 江戸時代 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
延喜式木工寮築垣条は、築地塀の大きさを規定します。鈴鹿関跡第1次調査からは、築地塀の壁体基底幅が最大1.8mになると考えられました。本条にあてはめると、本径6尺(約1.8m)が近似値となります。そうであれば、鈴鹿関に築造された築地塀の高さは1丈3尺、約3.9mであったと推測されます。
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国史跡 鈴鹿関跡第1次調査地(西から)
鈴鹿関跡第1次調査地平面図
築地塀(ねずみ色)とした部分が、約1.8mとなっています。築地塀の壁体基底幅と考えています。
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69 国史跡範囲内出土 市指定文化財 丸瓦・平瓦(鈴鹿関跡第1次調査) 丸瓦・平瓦(鈴鹿関跡第9次調査) 奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
第1・9次調査ともに、多量の丸瓦・平瓦が出土し、築地塀上に瓦が葺かれていたことが分かりました。重ねた平瓦の上に丸瓦を乗せ、丸瓦は玉縁部分で重ね合わせて屋根に葺きました。
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国史跡 鈴鹿関跡第9次2区調査地(南から)
奥が関の外側にあたる深い谷、手前が関の内側にあたる溝状のくぼみです。中央には、築地塀の屋根に葺かれていた丸瓦・平瓦が溜まっています。
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70 版築技法 現代 国土交通省近畿地方整備局国営飛鳥歴史公園事務所
版築とは、土や砂を棒で突き固める技法です。土や砂を均一の厚さに敷き詰めた後、突棒でおよそ半分の厚さになるまで突き固めました。鈴鹿関では、築地塀をつくる際に用いられました。版築技法で作られた築地塀はかなりの強度がありました。
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築地塀
版築(No.70)でつくった塀。塀の上部は、柱の上に小屋組みを設け、瓦を葺きました。鈴鹿関跡第9次2区調査地では、関の外側には深い谷、内側には溝状のくぼみが確認されました。延喜式(68)によると、築地塀は基底部からの高さ1丈3尺(約3.9m)であると想定されます。
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71 続日本紀 巻第三十六 明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
奈良時代末期の宝亀11年(780)と天応元年(781)、伊勢国は、鈴鹿関で大鼓がひとりでに鳴る、門と守屋が響き続けるという怪異事件を報告しました。怪異が起こった場所は、「西内城」「西中城門」「城門并守屋四間」です。この記事からは、鈴鹿関にこうした施設があったことが読み取れます。ただし、発掘調査で確認された西辺築地塀が、これらの記述のどの部分に該当するかは定かではありません。
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72 大日本神皇人皇御列影 明治26年(1893) 亀山市歴史博物館
神代の諸神と天皇の肖像の中に、鈴鹿関に関連した天皇も登場します。整備を進めた天武天皇が肖像上から7段目左から3人目、現在判明している西辺築地塀造営時の天皇である聖武天皇が上から8段目右から3人目、三関を停廃した桓武天皇が同じく8段目左から1人目に描かれています。
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