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凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
4.鈴鹿郡の古代  5.鈴鹿関跡  協力者・参考文献・出品一覧

第5章 鈴鹿関跡

 現在までに検出した鈴鹿関跡(すずかのせきあと)の遺構は、発掘調査成果、地理的条件、文献史料を総合的に勘案し、鈴鹿関の西端を限る西辺築地塀(ついじべい)であると結論づけました。鈴鹿関は律令三関(りつりょうさんげん)として、国家の交通管理施設かつ軍事防衛施設として機能しました。特に、非常時に行う固関(こげん)の目的は、都の反乱者が東国の勢力と結びつくことを防ぐことにありました。三関にとって都側(西側)の防御性が重要視されていたことが推測されます。つまり、西辺築地塀は、まさに鈴鹿関の機能の要といえるでしょう。今回、その北側の一部が国の史跡に指定されました。
 一方で、現在明らかとなっているのは、鈴鹿関の西辺築地塀の一部であり、鈴鹿関の全体像はまだまだ不明な部分が多く残っています。西辺築地塀も、明確となった北部以南は不明な部分もあり、まずは西辺築地塀の全体像を明らかにしていく必要があります。
 さらに、鈴鹿関全域の確定や内部にあった政庁をはじめとする諸施設、東海道や鈴鹿駅家(すずかのうまや)赤坂頓宮(あかさかとんぐう)などの周辺施設との関係など、解明すべき課題は多く残されています。

鈴鹿関跡航空写真

(1)現状

 鈴鹿関跡では、遺構としては築地塀の基部、遺物としては重圏文(じゅうけんもん)軒丸瓦と平瓦・丸瓦および須恵器片や土師器片などを確認しました。遺構・遺物、立地条件、文献史料の記述から、これまでの調査で確認できた遺構は、鈴鹿関の西端を限る築地塀であると考えられます。
 この西辺築地塀の北側の一部が国の史跡に指定されました。築地塀の遺構と文献史料をあわせると、築地塀の高さは約3.9m、そして総延長650mを超えると想定しています。西から歩みを進めてきた人々は、鈴鹿関が近づくと巨大な築地塀が続く様を眼前にし、視覚的にも威圧感を覚えたのではないでしょうか。


65 国史跡範囲内出土
   市指定文化財 重圏文軒丸瓦(鈴鹿関跡第1次調査)
   奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 二重圏文(にじゅうけんもん)の軒丸瓦。観音山南西麓の第1次調査地で築地塀跡の内側から出土しました。8世紀中頃のものです。瓦当面(がとうめん)のヒビから積み上げ技法横置型一本造りで製作されたと考えられます。現在までの発掘調査で出土した唯一の軒丸瓦で、出土量が少ないことから、築地塀の軒先ではなく棟先に鳥衾(とりぶすま)のように用いた可能性もあります。
市指定文化財 重圏文軒丸瓦(鈴鹿関跡第1次調査)


66 重圏文軒丸瓦(長者屋敷遺跡)
   奈良時代(8世紀後半) 鈴鹿市考古博物館
 伊勢国府で用いられた唯一の三重圏文(さんじゅうけんもん)の軒丸瓦。重圏文の比率が、鈴鹿関跡出土例(65)の圏線とほぼ一致し、さらに内側に一本圏線を足した形状になっています。瓦当面製作に用いられた笵型(はんがた)が、鈴鹿関での利用後、伊勢国府で利用され、その際に新たに内側に一本圏線を足したと考えられます。


一本造り成形台模式図
一本造り成形台模式図


67 国史跡範囲内出土
   市指定文化財 須恵器片(鈴鹿関跡第1次調査)
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 平瓶(へいへい)もしくは壺の頸部から肩にかけての部分。8世紀代のもの。鈴鹿関跡では、土器の出土量が少なく、貴重な一点です。
市指定文化財 須恵器片(鈴鹿関跡第1次調査)


68 延喜式 巻第三十四
   江戸時代 亀山市歴史博物館(明倫館文庫)
 延喜式(えんぎしき)木工寮(もくりょう)築垣(ついがき)条は、築地塀(ついじべい)の大きさを規定します。鈴鹿関跡第1次調査からは、築地塀の壁体基底幅が最大1.8mになると考えられました。本条にあてはめると、本径6尺(約1.8m)が近似値となります。そうであれば、鈴鹿関に築造された築地塀の高さは1丈3尺、約3.9mであったと推測されます。
延喜式 巻第三十四


国史跡 鈴鹿関跡第1次調査地(西から)
国史跡 鈴鹿関跡第1次調査地(西から)


鈴鹿関跡第1次調査地平面図
 築地塀(ねずみ色)とした部分が、約1.8mとなっています。築地塀の壁体基底幅と考えています。
鈴鹿関跡第1次調査地平面図


69 国史跡範囲内出土
   市指定文化財 丸瓦・平瓦(鈴鹿関跡第1次調査)
          丸瓦・平瓦(鈴鹿関跡第9次調査)
   奈良時代(8世紀中頃) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 第1・9次調査ともに、多量の丸瓦・平瓦が出土し、築地塀(ついじべい)上に瓦が()かれていたことが分かりました。重ねた平瓦の上に丸瓦を乗せ、丸瓦は玉縁(たまぶち)部分で重ね合わせて屋根に葺きました。
市指定文化財 丸瓦・平瓦


国史跡 鈴鹿関跡第9次2区調査地(南から)
 奥が関の外側にあたる深い谷、手前が関の内側にあたる溝状のくぼみです。中央には、築地塀の屋根に葺かれていた丸瓦・平瓦が溜まっています。
国史跡 鈴鹿関跡第9次2区調査地


70 版築技法
   現代 国土交通省近畿地方整備局国営飛鳥歴史公園事務所
 版築(はんちく)とは、土や砂を棒で突き固める技法です。土や砂を均一の厚さに敷き詰めた後、突棒(つきぼう)でおよそ半分の厚さになるまで突き固めました。鈴鹿関では、築地塀をつくる際に用いられました。版築技法で作られた築地塀はかなりの強度がありました。


築地塀
 版築(はんちく)(No.70)でつくった塀。塀の上部は、柱の上に小屋組みを設け、瓦を葺きました。鈴鹿関跡第9次2区調査地では、関の外側には深い谷、内側には溝状のくぼみが確認されました。延喜式(えんぎしき)(68)によると、築地塀(ついじべい)基底部(きていぶ)からの高さ1丈3尺(約3.9m)であると想定されます。
築地塀


71 続日本紀 巻第三十六
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 奈良時代末期の宝亀11年(780)と天応元年(781)、伊勢国は、鈴鹿関で大鼓がひとりでに鳴る、門と守屋が響き続けるという怪異事件を報告しました。怪異が起こった場所は、「西内城」「西中城門」「城門并守屋四間」です。この記事からは、鈴鹿関にこうした施設があったことが読み取れます。ただし、発掘調査で確認された西辺築地塀が、これらの記述のどの部分に該当するかは定かではありません。
続日本紀 巻第三十六
続日本紀 巻第三十六
続日本紀 巻第三十六


72 大日本神皇人皇御列影
   明治26年(1893) 亀山市歴史博物館
 神代の諸神と天皇の肖像の中に、鈴鹿関に関連した天皇も登場します。整備を進めた天武天皇が肖像上から7段目左から3人目、現在判明している西辺築地塀造営時の天皇である聖武天皇が上から8段目右から3人目、三関(さんげん)を停廃した桓武天皇が同じく8段目左から1人目に描かれています。
大日本神皇人皇御列影
大日本神皇人皇御列影
大日本神皇人皇御列影
大日本神皇人皇御列影

(2)課題と展望

 現時点で明確になっている鈴鹿関跡の遺構は、西辺築地塀の北側の一部のみです。今後解明すべき課題は多く残されています。
 第一の課題は、西辺築地塀の確定です。西辺築地塀は、国道1号をまたぎ、その南端はJR関西本線のあたりまで続くと想定しています。その長さは650mを超えるでしょう。南端に近いとみている地点からは2条の瓦溜りが確認されており、北部からどのように築地塀が連続するのか、発掘調査で確認する必要があります。そのほかにも、関内部の諸施設、東海道や鈴鹿駅家と鈴鹿関の位置関係は解明すべき大きな課題であると考えています。
 また、現在確認している西辺築地塀は、出土した軒丸瓦から8世紀中頃、聖武天皇在位期のものではないかとみています。聖武天皇は、天平12年(740)に関東行幸を行いました。関東行幸とは、藤原広嗣の乱が勃発している中、平城宮から伊勢国へ出発し、最終的に恭仁宮(くにきゅう)に到着し、遷都(せんと)するという旅です。この行幸の途次、一行は赤坂頓宮に滞在しました。赤坂頓宮の場所も東海道の経路を考えるうえで重要な課題です。発掘調査の進展とともに、文献史料や地理的環境などを検討し、鈴鹿関の全貌解明の糸口としたいと考えています。


鈴鹿関跡第2次調査地瓦溜り(北西から)
 2条の瓦溜りの間に築地塀が築かれていたと考えられます。溜まっている瓦は、築地塀の屋根に葺かれていた丸瓦・平瓦です。
鈴鹿関跡第2次調査地瓦溜り(北西から)


73 市指定文化財 丸瓦・平瓦・須恵器片(鈴鹿関跡第2次調査)
   奈良時代 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 城山南西部(第2次調査地)では、2条の瓦溜りが確認されました。丸瓦と平瓦で構成された瓦溜りは、築地塀が、観音山南西麓から城山南西部まで連続していることを想定させます。ここでは、須恵器も確認されました。坏の底部であり、8世紀のものとみられます。
市指定文化財 丸瓦・平瓦・須恵器片(鈴鹿関跡第2次調査)
市指定文化財 丸瓦・平瓦・須恵器片(鈴鹿関跡第2次調査)

赤坂頓宮

 鈴鹿関を考えるうえで、同時期に鈴鹿郡にあった聖武天皇が宿泊した「赤坂頓宮(とんぐう)」の情報は重要です。鈴鹿関跡出土の重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)が、8世紀中頃という聖武天皇在位期のものであることから、天皇の行幸と鈴鹿関の整備は時期が近似する可能性が考えられます。しかし、現在、赤坂頓宮の場所は明確になっていません。その候補地は、鈴鹿市国府町の字赤坂、亀山市関町木崎(こざき)の字赤坂、石上寺への寄進地として現れる川合町(かわいちょう)の「赤坂苽生(うりゅう)」などが考えられています。


赤坂頓宮阯石碑(亀山市関町木崎 まるやま公園)
 江戸時代の地誌「三国地誌」「勢陽五鈴遺響」では、瑞光寺の後ろに赤坂という字があることから、そこに赤坂頓宮があると記しています。まさに、現在、「赤坂頓宮阯」石碑が立っている場所のことです。この石碑は、昭和8年(1933)、三重県によって建立されました。
赤坂頓宮阯石碑(亀山市関町木崎 まるやま公園)

74 続日本紀 巻第十三
   明治16年(1883) 亀山市歴史博物館
 天平12年(740)、聖武天皇による関東行幸の折、一行は鈴鹿郡の赤坂頓宮に宿泊しました。11月14日から22日までの9日間留まりました。
続日本紀 巻第十三
続日本紀 巻第十三


75 県指定文化財 正元元年某袖判寄進状
   正元元年(1259) 石上寺(亀山市歴史博物館寄託)
 石上寺(せきじょうじ)(亀山市和田町)への畠地の寄進状。寄進場所は「萩野(ばいの)」で、その四至のうち北限が「赤坂苽生(うりゅう)」とされます。「赤坂」という地名があったことが確かめられます。
県指定文化財 正元元年某袖判寄進状


76 新熊野三社乃記
   明和4年(1767) 石上寺(亀山市歴史博物館寄託)
 萱生由章(かようよりふみ)が作成した石上寺の縁起。本縁起の中で「正元元年某袖判寄進状」(No.75)の寄進場所「萩野」の四至の具体的な場所を記しています。「赤坂苽生」は、「河合のかみ、中の山のしもにあり」とあり、現在の川合町の東野公園の北側にあたるのではないかと考えられます。
新熊野三社乃記


石上寺寄進地推定範囲
 「正元元年某袖判寄進状」(No.75)に記される寄進地を黄色で示しました。四至は、確認できる字名をだいだい色で示しました。「瓜生」という字名が確認できるので、「赤坂」という字名は確認できませんが、瓜生に隣接する地であったと考えられます。
石上寺寄進地推定範囲

   


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