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凡例  1.亀山市内の国史跡  2.道を塞ぐ―内乱の時代―  3.鈴鹿関と制度―奈良時代の政策― 
4.鈴鹿郡の古代  5.鈴鹿関跡  協力者・参考文献・出品一覧

第1章 亀山市内の国史跡

 令和3年3月26日、鈴鹿関跡(すずかのせきあと)が国の史跡に指定されました。これにより、亀山市内の国の史跡は、野村一里塚、正法寺山荘跡(しょうぼうじさんそうあと)、そして鈴鹿関跡の3件となりました。鈴鹿関跡は奈良時代、正法寺山荘跡は室町時代、野村一里塚は江戸時代、つまり、古代から近世までの史跡がそろっており、市域の歴史の深さを表しています。


亀山市新所を南西より望む
 南北両側から観音山と城山が迫っています。まさにこのあたりが、鈴鹿関跡西辺築地塀が確認された場所です。
関町新所南西より

(1)国史跡 鈴鹿関跡

 亀山市関町新所で確認された鈴鹿関跡は、令和3年3月26日に国の史跡に指定されました。鈴鹿関は、律令国家にとって最も重要な交通管理施設とされた「三関(さんげん)」のひとつです。発掘調査で西辺築地塀(ついじべい)の一部が確かめられたことにより、その実態の一部が明らかとなりました。律令国家の交通管理政策において重要な役割を果たした関の実態が判明したこと、また関の位置や政庁などの内部構造を考えるうえで重要な成果となっていることが評価され、国の史跡に指定され、保護を図ることとなりました。


1 鈴鹿関跡史跡指定通知
   令和3年(2021) 亀山市(まちなみ文化財グループ所管)
 令和3年3月26日、文部科学大臣より亀山市長あてに出された史跡指定の通知文。本通知および官報告示(No.2)により、鈴鹿関跡は、正式に史跡に指定され、保護されることとなりました。
鈴鹿関国史跡指定通知


2 官報 号外第70号
   令和3年(2021) 亀山市歴史博物館
 令和3年3月26日、内閣府発行の官報に史跡指定の告示が掲載されました。掲載内容は、文部科学省告示第44号により、新たに史跡が指定された、というものです。そのうちの1か所が、鈴鹿関跡で、指定場所は、亀山市関町新所(せきちょうしんじょ)字西町北に所在する2809.13uです。


文化財の種類
文化財の種類


3 広報かめやま 第375号
   令和3年(2021) 亀山市
 亀山市発行の「広報かめやま」(令和3年5月1日号)では、鈴鹿関跡が国の史跡に指定されたことを記念し、特集ページを作成しました。鈴鹿関の概要とともに史跡指定までの経緯、今後の計画がまとめられています。
広報かめやま 第375号

(2)市内の国史跡

 亀山市内には、鈴鹿関跡以外に2件の国の史跡があります。江戸時代の東海道に設けられた一里塚の野村一里塚(亀山市野村三丁目)、関盛貞による別荘をかねた寺院の跡である正法寺山荘跡(しょうぼうじさんそうあと)(亀山市関町鷲山)です。


野村一里塚(亀山市野村三丁目)
 昭和9年(1934)1月22日、国の史跡に指定されました。一里塚は、慶長9年(1604)に、一里ごとに街道の両側に築くことを命じられた塚で、野村に築かれた一里塚もそのひとつです。
 現在、野村一里塚には、道の北側にある塚上に幹周囲570p、樹高11.5mのムクノキが生えています(『亀山市史』自然編)。

野村一里塚


4 東海道名所細見記
   江戸時代後期 亀山市歴史博物館
 近世の東海道沿道の名所を簡略に描いています。日本橋から三条大橋までを描いた多色刷りの小型折本です。
 亀山宿をみると、亀山城の南の東海道に一里塚があります。「野村」と「野尻」の間の道の両側に、盛り土の上に樹木を描き、「一りつか 両方 榎三」と記しています。

東海道名所細見記
東海道名所細見記


5 野村一里塚
   昭和30年代(1955-1964) 亀山市歴史博物館
 昭和30年代に撮影された野村一里塚です。当時は、ムクノキの他に、マツが一本生えていた様子がうかがえます。

野村一里塚S30


正法寺山荘跡(亀山市関町鷲山)
 昭和56年(1981)1月24日、国の史跡に指定されました。正法寺山荘は、16世紀初め、関何以斎(かじさい)(盛貞)が建てた寺院と一体となった山荘です。戦国期の地方武士の生活状況が理解できること、『宗長(そうちょう)日記』などの中世文学史上の貴重な遺跡であることが評価され、史跡として指定されました。

正法寺山荘跡


6 宗長手記上(群書類従)
   昭和57年(1982) 個人
 宗長手記は、連歌師の宗長(そうちょう)による大永2年(1522)から7年までの記録です。駿河国の自分の庵から山城国との往復と駿河在国時の各地の様子が記されています。
 大永4年の記録によると、正法寺山荘は、鷲山にある「正法寺」という寺院と一体となった山荘で、亀山にあった関何以斎(かじさい)(盛貞)の(やかた)から50町(約5.4q)西の位置にあります。その他にも、寺のみではなく防御機能を備えたつくりであること、連歌会や饗宴のようすなどが記されています。

宗長手記上


7 広報「せき」縮刷版 第2巻
   平成2年(1990) 亀山市歴史博物館
 「広報せき」第243号(昭和55年12月10日発行)。正法寺山荘跡が、文化庁の文化財保護審議会(現:文化審議会)によって史跡として指定するよう答申がなされたことをとりあげ、正法寺山荘の歴史的背景の概略を紹介しています。

広報せき


8 正法寺山荘復元模型
   平成6年(1994) 亀山市歴史博物館
 180分の1の正法寺山荘の復元模型。北東からの姿。南から門を入って、中心部へ向かいます。寺とみられる中心区画の周辺に複数の区画が囲む構造となっており、西側の区画は、会所や台所など館としての機能が考えられます。

正法寺山荘復元模型


   


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