亀山市歴史博物館
亀山の
歴史の中の女性達


プロローグ
江戸時代の女性
1、女子の教育
2、女性の就職
〜工女として製糸工場へ〜
3、女性の社会活動
〜婦人会〜

1.女子の教育

 この地域は、明治から大正にかけて、公立・私立ともに多くの学校ができ、教育が盛んな町でもありました。この時代の古い写真の授業風景をみると、男女は同じ校舎に通っても教室は別々になっています。これは、戦前の日本では、教育において、男女共学は好ましくないという風潮があったからで、男女は学ぶ内容も学ぶ教室も別になっていました。つまり、教育の面でも男女不平等が存在していました。
 現在では考えられないことですが、戦前の日本では、女子は中学校に通うことができませんでした。その代わりとして、女子は、女子の中等機関として位置づけられていた高等女学校に通いました。この地域で一番最初にできた女子の中等教育機関は、私立鐸鳴たくめい女学校です。『三重県統計書』によれば、私立鐸鳴女学校は、都道府県知事の認可を受けて設置される「各種学校」で、高等女学校に類する学校として分類されています。


@ 私立鐸鳴たくめい女学校

 私立鐸鳴たくめい女学校は、鈴鹿郡に女子の補修教育に適当な施設がなかったことを遺憾に思った鈴鹿郡長北野孝一によって、明治38年(1905)4月10日に亀山尋常小学校の校舎の一部を借りて開校しました。開校当時は修業年限2年であったので、生徒も少なかったようです。
 その後、明治42年(1909)に本科2年、裁縫科3年、補修科2年となりました。このうち本科は、高等小学校の卒業者が入学でき、高等普通教育を受けようとする者の他、小学校教員志願者や女子師範学校入学希望者の予備校のような性格がありました(『三重県教育史』第1巻)。そのためか、鐸鳴女学校で使われていた教科書に師範学校用のものがあります。また、裁縫科は尋常小学校卒業者、補修科は、本科と裁縫科を卒業した者が入学しました。
 なお、鐸鳴女学校は、大正10年(1921)4月に郡立鈴鹿高等女学校になりました。


[6]
 この教科書の裏表紙に「鐸鳴女学校内 小亀節子」と名前が書かれていることから、鐸鳴たくめい女学校で使われていた教科書だったことがわかります。表紙の題簽だいせんに師範学校と書かれているのは、鐸鳴女学校が、小学校教員志願者や女子師範学校入学希望者の予備校のような性格があったからです。
[6]:師範学校国文教科書 講習科用 巻二 (小亀家資料61-39)

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A 鈴鹿高等女学校

 鈴鹿高等女学校は、大正10年(1921)4月に郡立からスタートしました。入学者は、鐸鳴たくめい女学校からの編入者や、尋常小学校卒業者・高等小学校1学年修了者・高等小学校卒業者・高等女学校1年修了者・高等女学校2年修了者で、『三重県統計書』によれば、入学時の平均年齢は12.1歳でした。郡立鈴鹿高等女学校では、鐸鳴女学校時代の校舎を仮校舎として使用し、それでも校舎が不足したので、鐸鳴女学校時代にも借用していた亀山城武器庫(多門櫓)を借用し、障子で仕切って2教室を確保しています。
 大正11年(1922)3月には、教室不足のため三重県女子師範学校の隣に移転しました。この場所は現在の亀山高校の場所です。女子師範学校に隣接した学校であったことから、教師の一部は女子師範学校の教員が兼任していました。そして、同年4月に郡制度廃止のため亀山町外18ヵ村組合立となりました。その後大正12年(1923)には県立に移管されました。


[7]
 これは、鈴鹿高等女学校学級増加の件についての陳情書です。入学志願者増加の状況から、差しあたり1学級を増加したい旨が書かれています。
[7]:陳情書(小亀家資料71-56)

[8]
 鈴鹿高等女学校は、昭和8年(1933)に、三重県女子師範学校と校舎・校地を共用して、日常の教育活動も全て両校一体となって進むという画期的な新体制が始まりました。
 これにより、この平面図の附属小学校の場所にあった鈴鹿高等女学校は、師範学校の北側の通用門の近くに校舎が移転しました。これ以後、鈴鹿高等女学校と三重県女子師範学校では、運動会や卒業式などの行事を共におこなっただけでなく、校歌も同じにしています。
[8]:昭和15年度三重県立鈴鹿高等女学校一覧表(小亀家資料61-81)

[9]
 これは、昭和14年(1939)の鈴鹿高等女学校の卒業証書です。この時の卒業式も三重県女子師範学校と合同でおこなっています。
[9]:鈴鹿高等女学校卒業証書(個人所蔵資料)

[10]
 鈴鹿高等女学校指定の学生鞄です。残念ながら、ふたと肩紐が無くなっています。これは、食糧難の頃、ジャガイモの買い出しに使って破損したということです。ふたを留める金具があったと思われる場所に、「四西」と書かれています。鈴鹿高等女学校は、東組と西組がありました。
[11]:鈴鹿高等女学校指定学生鞄(館蔵米川家資料)

[11]
 鈴鹿高等女学校卒業記念アルバムより。この校門は元々三重県師範学校の校門でしたが、昭和8年(1933)に鈴鹿高等女学校と校地が共用となったため、写真には写っていませんが、校門には、両方の校名の表札がかかっていたそうです。
[11]:校門(写真)(館蔵米川家資料)

[12]
 鈴鹿高等女学校卒業記念アルバムより。運動会で三重県体操をしています。
[12]:運動会(写真)(館蔵米川家資料)

[13]
 鈴鹿高等女学校卒業記念アルバムより。
[13]:東組薙刀練習(写真)(館蔵米川家資料)

[14]
 鈴鹿高等女学校卒業記念アルバムより。戦時中は、鈴鹿高等女学校の学生も勤労奉仕に狩り出されました。モンペ姿で稲刈りをしています。
[14]:井田川村勤労奉仕(写真)(館蔵米川家資料)

[15]
 鈴鹿高等女学校卒業記念アルバムより。写真上段が鈴鹿高等女学校の学生です。奉仕活動として土木作業をしています。
[15]:橿原神宮建国奉仕(写真)(館蔵米川家資料)

[16]
 校友会は、生徒の学芸・運動を奨励し校風を振作する目的で発足した生徒による組織です。これは、その機関誌です。
[16]:『校友会誌』(館蔵加藤(五)家資料)

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B 三重県女子師範学校

 三重県女子師範学校は、明治37年(1904)4月1日に陰涼寺山に開校しました。女子師範学校は、明治34年(1901)に津市の師範学校内に女子部として開校されましたが、「監理上教育上に於いて差し支えのある」ことから移転することになり、久居と亀山で誘致運動を行った結果、亀山に決定しました。県は、亀山駅から徒歩10分ほどの野村の地を校地に考えていましたが、東町(現本町)の住民による三本松への誘致運動の結果、東町に決まりましたが、三本松は繁華街であったため、教育上好ましくないということから、陰涼寺山となりました。


[17]
 明治37年(1904)4月 1日に、東町(現本町)の陰涼寺山に開校しました。
[17]:三重県女子師範学校全景(写真)(館蔵資料)

[18]
 これは、昭和7年(1932)4月30日現在調べの三重県師範学校一覧表の裏面「三重県女子師範学校校地校舎寄宿舎図面」です。翌年の鈴鹿高等女学校との校舎共有のための改修の書き込みがります。
[18]:三重県女子師範学校一覧表(小亀家資料61-147)

[19]
 これは、三重県女子師範学校のアルバムをバラして扁額にしたものです。寄宿舎や附属小学校など、昔の三重県女子師範学校のようすをみることができます。
[19]:三重県女子師範学校の扁額(館蔵伊藤(容)家資料)

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