1.女子の教育
@ 私立鐸鳴女学校
私立鐸鳴女学校は、鈴鹿郡に女子の補修教育に適当な施設がなかったことを遺憾に思った鈴鹿郡長北野孝一によって、明治38年(1905)4月10日に亀山尋常小学校の校舎の一部を借りて開校しました。開校当時は修業年限2年であったので、生徒も少なかったようです。
その後、明治42年(1909)に本科2年、裁縫科3年、補修科2年となりました。このうち本科は、高等小学校の卒業者が入学でき、高等普通教育を受けようとする者の他、小学校教員志願者や女子師範学校入学希望者の予備校のような性格がありました(『三重県教育史』第1巻)。そのためか、鐸鳴女学校で使われていた教科書に師範学校用のものがあります。また、裁縫科は尋常小学校卒業者、補修科は、本科と裁縫科を卒業した者が入学しました。 なお、鐸鳴女学校は、大正10年(1921)4月に郡立鈴鹿高等女学校になりました。
[6]:師範学校国文教科書 講習科用 巻二 (小亀家資料61-39)
A 鈴鹿高等女学校
鈴鹿高等女学校は、大正10年(1921)4月に郡立からスタートしました。入学者は、鐸鳴女学校からの編入者や、尋常小学校卒業者・高等小学校1学年修了者・高等小学校卒業者・高等女学校1年修了者・高等女学校2年修了者で、『三重県統計書』によれば、入学時の平均年齢は12.1歳でした。郡立鈴鹿高等女学校では、鐸鳴女学校時代の校舎を仮校舎として使用し、それでも校舎が不足したので、鐸鳴女学校時代にも借用していた亀山城武器庫(多門櫓)を借用し、障子で仕切って2教室を確保しています。
大正11年(1922)3月には、教室不足のため三重県女子師範学校の隣に移転しました。この場所は現在の亀山高校の場所です。女子師範学校に隣接した学校であったことから、教師の一部は女子師範学校の教員が兼任していました。そして、同年4月に郡制度廃止のため亀山町外18ヵ村組合立となりました。その後大正12年(1923)には県立に移管されました。
[7]:陳情書(小亀家資料71-56)
これにより、この平面図の附属小学校の場所にあった鈴鹿高等女学校は、師範学校の北側の通用門の近くに校舎が移転しました。これ以後、鈴鹿高等女学校と三重県女子師範学校では、運動会や卒業式などの行事を共におこなっただけでなく、校歌も同じにしています。 [8]:昭和15年度三重県立鈴鹿高等女学校一覧表(小亀家資料61-81)
[9]:鈴鹿高等女学校卒業証書(個人所蔵資料)
[11]:鈴鹿高等女学校指定学生鞄(館蔵米川家資料)
[11]:校門(写真)(館蔵米川家資料)
[12]:運動会(写真)(館蔵米川家資料)
[13]:東組薙刀練習(写真)(館蔵米川家資料)
[14]:井田川村勤労奉仕(写真)(館蔵米川家資料)
[15]:橿原神宮建国奉仕(写真)(館蔵米川家資料)
[16]:『校友会誌』(館蔵加藤(五)家資料)
B 三重県女子師範学校
三重県女子師範学校は、明治37年(1904)4月1日に陰涼寺山に開校しました。女子師範学校は、明治34年(1901)に津市の師範学校内に女子部として開校されましたが、「監理上教育上に於いて差し支えのある」ことから移転することになり、久居と亀山で誘致運動を行った結果、亀山に決定しました。県は、亀山駅から徒歩10分ほどの野村の地を校地に考えていましたが、東町(現本町)の住民による三本松への誘致運動の結果、東町に決まりましたが、三本松は繁華街であったため、教育上好ましくないということから、陰涼寺山となりました。
[17]:三重県女子師範学校全景(写真)(館蔵資料)
[18]:三重県女子師範学校一覧表(小亀家資料61-147)
[19]:三重県女子師範学校の扁額(館蔵伊藤(容)家資料)
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