3、女性の社会活動〜婦人会〜
@ 戦前・戦中のこの地域の婦人会
この地域では、愛国婦人会の会員になった人、大日本国防婦人会の会員になった人、その両方の会員になった人がいました。聞き取り調査によれば、戦時中は結婚すると婦人会に入りましたが、結婚前の女性は女子青年団に入ったそうです。
[43]:昭和十二年九月三十日愛国婦人会員実行要目 (小亀家資料49-10)
[44]:愛国婦人会三重県支部事業要項(封筒) (小亀家資料料51-1-1)
[45]:愛国婦人会三重県支部昭和十四年度事業報告 (小亀家資料71-31)
[46]:愛国婦人会通常会員章(館蔵八木家資料)
[47]:愛国婦人会参等有功章(個人寄託資料)
[48]:愛国婦人会襷(個人所蔵資料)
[49]:機関誌『愛国婦人』(小亀家資料61-50〜-53)
[50]:昭和13年5月31日発行「愛国婦人」普及版 (小亀家資料71-7)
[51]:愛国婦人会々歌(小亀家資料66-1-31)
[52]:大日本国防婦人会活動着(再現) ※襷は実物(館蔵佐々木家資料)
[53]:機関紙「三重国防婦人」(小亀家資料49-11)
[54]:大日本婦人会鈴鹿郡支部結成式挙行につき案内状 (小亀家資料49-23)
[55]:大日本婦人会鈴鹿郡支部役職員(小亀家資料51-1-2)
[56]:大日本婦人会々報(小亀家資料63-3-1)
A−1 愛国婦人会と大日本国防婦人会の活動の痕跡
市域での愛国婦人会と大日本国防婦人会の活動をみると、どちらの婦人会も、出征軍人の駅などでの見送りや退役軍人の出迎え、遺骨の出迎え、戦地への慰問袋の製作や出征軍人家族・遺族への慰問、奉仕活動など活動内容は大差なかったようです。このことは、亀山町や農会が協力を依頼した書類の多くが、宛先に愛国婦人会と国防婦人会両方が併記されていることからもうかがえます。
愛国婦人会亀山町分会で製作した慰問袋について、のこされていたメモ書きによると、その中身は、昆布飴・スルメ・唐辛子・氷砂糖・煮干し・鰹節・軍手・靴下・ふんどし・空き缶の他、慰問文(画)・少冊子などを入れたようです。 国防婦人会の活動について、国防婦人会三重県支部の機関紙である「三重国防婦人」の「分会たより」欄に記された、昭和10年(1935)10月から昭和16年(1941)11月までの活動内容を分類分けしたところ、主な活動は、出征軍人(除隊兵)歓送迎49回、慰問活動24回、武運長久祈願祭への参加12回、基金(資金)造成12回、奉仕活動11回でした。このうち、基金(資金)造成とは、活動資金を自らで稼ぐことですが、愛国婦人会では、会員からの会費が活動費になったのに対し、国防婦人会は、廃品交換や品物を販売して活動資金を稼ぎました。
[57]:銃後の心得(小亀家資料78-1-13)
出征の見送り、送別会に関する書類
[58]:入営奉告祭執行ノ件(小亀家資料71-35)
[59]:教育召集兵出発ニ関スル件(小亀家資料71-38) ※個人名は伏せています。
[60]:現役入営兵出発日時通知ノ件(小亀家71-33) ※個人名は伏せています。
慰問や物資供出などさまざまな奉仕活動に関する書類
[61]:軍需供出真綿作製奉仕依頼ノ件(小亀家資料71-13)
[62]:軍需梅干選別依頼ノ件(小亀家資料71-15)
[63]:抜毛蒐集ノ件(小亀家資料71-18)
[64]:蚊帳釣輪献納蒐集の件(小亀家資料71-19)
[65]:慰問袋送付について(小亀家資料71-54)
[66]:愛国婦人会筵製造(写真)(豊田豊家所蔵資料)
[67]:国防婦人会奉仕活動(写真)(館蔵加藤(五)家資料)
[68]:国防婦人会神社参詣(写真)(豊田豊家所蔵資料)
[69]:国防婦人会愛国甘酒販売(写真)(個人所蔵資料)
[70]:国防婦人会と旅の二人連れ(写真)(個人所蔵)
遺骨出迎えや合同慰霊祭(葬儀)に関する書類
[71]:焼香ニ関スル件(小亀家資料71-21) ※個人名は伏せています。
[72]:合霊祭ニ関スル件(小亀家資料71-28) ※個人名は伏せています。
[73]:遺骨出迎ニ関スル件(小亀家資料71-51) ※個人名は伏せています。
[74]:昼生小学校会場の村葬に参列する 大日本国防婦人会と愛国婦人会(写真) (個人所蔵資料)
A−2 愛国婦人会と国防婦人会の襷
愛国婦人会では、紺色の会服に襷をかけますが、写真をみると、国防婦人会が右肩から左脇へ斜めに掛けるのに対し、愛国婦人会では、左肩から右脇へ掛けています。このようなところからも、自身の所属する婦人会の活動に対するプライドを感じ取ることができます。
[75]:愛国婦人会三重県支部(集合写真)(小亀家資料)
[76]:神社前2人(写真)(豊田豊家所蔵資料)
A−3 大日本婦人会の活動の痕跡
大日本婦人会の時代は、戦争の悪化により国内の物資が不足し、食糧も不足しました。そこで、国策として学校の校庭や空き地を耕して農地にするようになります。これについて、婦人会に対しても、大政翼賛会が主催する素人園芸家への講習会に協力依頼がありました。また、さつまいもを持参しての疎開児童への慰問、人口問題に対する戦時結婚の斡旋など、国の政策に従った活動をおこなっています。また軍事援護事業においても、飛行機の潤滑油となるヒマの栽培実施への協力や、軍需工場で働く産業戦士へ藁草履の送付など、銃後の支援活動を積極的におこなっています。
[77]:戦時農園指導講習ノ件(関町史編さん資料5-36-73)
[78]:戦時結婚(関町史編さん資料5-36-11)
[79]:疎開学童慰問ノ件(関町史編さん資料5-36-71)
[80]:軍務用雑巾調整方依頼ノ件(関町史編さん資料5-36-81)
[81]:鈴鹿海軍航空隊慰問ニ関スル件 (関町史編さん資料5-36-33)
[82]:軍事援護強調運動実施ニ関スル件 (関町史編さん資料8-1-26)
B 戦後の婦人会
戦後は、婦人会も新しい形へ変わっています。GHQにより女性解放政策がとられ、これにより新日本婦人同盟や主婦連合会など、新しい女性団体が結成されました。地域婦人会も戦時中までとは違う民主的な新しい形の婦人会として、昭和27年(1952)に全国地域婦人団体連絡協議会を結成します。敗戦直後のこの地域の婦人会の活動については、資料がほとんど見つかっていないので詳細は不明ですが、わずかにみつかった書類から、昭和21年4月には「地域婦人会鈴鹿郡連絡協議会」が結成されていたこと、また、鈴鹿郡婦人団体連絡協議会による戦災学校復興資金の寄付や「三重県復興宝籤」の斡旋など、復興にむけての活動がおこなわれていたことがわかりました。
[83]:戦災学校復校資金壱千弐百円寄贈の礼状 (小亀家資料45-1)
[84]:宝籤について御願ひ(小亀家資料45-3-1)
[85]:第2回三重県復興たからくじチラシ(小亀家資料45-3-3)
コラム 婦人会活動で功績のあった小亀志江
婦人会でこの地域の戦前から戦後の婦人会において活躍した人物の1人に小亀志江がいます。小亀志江は、映画監督衣笠貞之助の兄衡一の嫁にあたります。履歴書によると、志江は、昭和8年(1933)4月に愛国婦人会の幹部となり、昭和11年(1936)4月から昭和15年(1940)5月までは、愛国婦人会三重県支部鈴鹿郡聯合分会長を務めています。また、同時期、亀山町分会長も務めていました。愛国婦人会では、分会長は、「原則として市町村長夫人ナルモ特別ノ事情アルニ依ル」と決められており、志江の夫、衡一が昭和11年(1936)3月〜昭和15年(1940)3月まで亀山町長を務めていたことから亀山町分会長に任命されたと思われます。
その後、志江は戦後の婦人会においても活動し続け、鈴鹿郡連絡協議会会長や三重県婦人会副会長の任に就きました。さらにその後は、津地方裁判所家庭裁判所調停委員に委嘱されるなど、女性として活躍しています。 今まで、この地域の戦前・戦中当時の婦人会活動の実態はあまりよくわかっていませんでしたが、この度、整理中の小亀家資料から当時の書類が多く見つかり、その一端が垣間見えました。また同時に、志江の婦人活動に対する真摯な思いも伝わってきます。
[86]:小亀志江(写真)(小亀家資料79-13)
[87]:小亀志江履歴書(小亀家資料79-13)
C 現在の婦人会
現在の市域の婦人会は、「亀山市婦人会連絡協議会」という名前です。平成27年度には、亀山城桜まつりや花しょうぶまつり・納涼大会・関宿街道まつり・成人式など市行事への協力の他、道の駅での花壇づくりや防災訓練・戦没者追悼式・献血運動PRなど、多岐にわたる活動を行っています。また、年間を通じた活動として、環境美化・3世代交流・独居家庭への配食・敬老会への参加も行っています。
聞くところによれば、昔は、家に嫁が来ると姑は婦人会から脱会し、嫁が姑に変わって婦人会の会員となったそうです。このため、会員数が減ることはありませんでしたが、現在は核家族化が進んでいるため、この法則どおりにはいかなくなり、現在では会員も高齢化が進んでいるのだそうです。そこで、これまで行ってきた奉仕活動などの通常の活動以外にも、自分たちも楽しめるようにと、カラオケや茶道・さわやか体操など合計8つのサークルを設けているそうです。婦人会の歴史をふり返ってみると、時代に応じて形が変わってきていることがわかります。 [88]:三重県婦人会連絡協議会選定三重県婦人会会歌ソノシート (館蔵亀山市婦人会連絡協議会資料)
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