プロローグ
江戸時代に作成された系図[1]を見ると、男性は嫡子以外も全て名前が記されているのに対し、女性は名前がまったく記されず、ただ「女」として表記されているものが多くみられます。このことは、江戸時代が封建的家族制度であったことに起因しています。
家族制度においては、家長に対し家族全員が服従することがあたりまえでした。社会は男性中心であり、女性には、跡継ぎを産んで立派に育てることだけが求められました。このような制度のもとで、女性は家庭の中に抑圧された状態におかれ、立場も非常に弱いものでした。
また、江戸時代、儒教の教えである「三従」(幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては(老いては)子に従う)が女性の婦徳とされていました[3][4]。三従は貝原益軒の『和俗童子訓』にも「女子三従の教え」として紹介され、これを後の人が簡略化した「女大学」[5]が女性の教訓書として多く出版され、寺小屋などでも教科書として用いられたため、三従が女性の道徳として広く一般化しました。 |
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江戸時代の系図は、女性の名前が記されていないものが多くみられます。この「権太氏系図」も名前は書かれず、「女」とのみ記されています。
[1]:権太氏系図(館蔵加藤家文書43-0-13)
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これ[2]は、石井三徳からおてうへ渡された江戸時代の離縁状です。このような離縁状は、文言が3行半に収まるように書かれたことから、「みくだりはん」とも呼ばれました。 離縁状は、夫が妻へ渡すことで離婚が成立しました。江戸時代は夫からの一方的な離婚が多く、特に武家では、夫から離縁状を渡されれば妻は拒否することができませんでした。なお、離縁状は離縁の理由が書かれておらず、また離縁された妻の再婚を認めています。近年の研究では、このことが、夫による妻への配慮であったと考えられています。 [2]:離縁状(加藤家文書34-0-167)
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『儀礼』は、中国における儒教の経書で礼儀作法を記した書。この中に「伝曰く、(中略)婦人、三従の義有りて、専用の道無し。故に未だ嫁さずは父に従ひ、既に嫁しては夫に従ひ、夫死しては子に従ふものなり。(下略)」と三従が記されている。
[3]:『儀礼』喪服篇不杖期章伝(館蔵明倫館文庫)
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『礼記』は、中国における儒教の経書で五経の1つです。この中にも三従が記され、「(前略)婦人は人に従ふ者なり。幼くしては父兄に従ひ、嫁しては夫に従ひ、夫死しては子に従ふものなり。(後略)」と記されている。
[4]:『礼記』郊特牲篇(館蔵明倫館文庫)
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『女大学』は江戸時代に出版された貝原益軒の『和俗童子訓』を簡略化した本で、「一夫女子は、成長して他人の家へ行き、舅姑に仕るものなれは、男子よりも、親のをしへゆるかせにすべからず」の出だしから始まり、封建的女子道徳を説いた本です。
この『女大学操箱』は、文屋翁によって出版されました。
[5]:『女大学操箱 全』(渡辺家寄託史料A2-24)
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