亀山城(かめやまじょう)の完成(かんせい)
本多俊次(ほんだとしつぐ)が亀山城主(かめやまじょうしゅ)となると、1637年(ねん)(寛永(かんえい)14年(ねん))から3年(ねん)をかけて亀山城(かめやまじょう)の整備(せいび)をおこないました。この整備(せいび)により亀山城(かめやまじょう)の形(かたち)が完成(かんせい)しました。
本多俊次(ほんだとしつぐ)の亀山城整備(かめやまじょうせいび)
本多俊次(ほんだとしつぐ)の行(おこな)った整備(せいび)はつぎのようなものと考(かんが)えられます。①西出丸(にしでまる)と西之丸(にしのまる)を築(きず)きその周(まわ)りに堀(ほり)をつくった。②二之丸御殿(にのまるごてん)・二之丸向屋敷(にのまるむこうやしき)を整備(せいび)した。③本丸(ほんまる)に三重櫓(さんじゅうやぐら)を建(た)てた。④本丸南側(ほんまるみなみがわ)にあった谷(たに)を水堀(みずぼり)とした。⑤中屋敷(なかやしき)・江ケ室(えがむろ)・市ヶ坂(いちがさか)・南崎(みなみざき)・渋倉(しぶくら)・東台(ひがしだい)を武士(ぶし)が住(す)む場所(ばしょ)とした。
完成(かんせい)した亀山城(かめやまじょう)の図面(ずめん)
1644年(ねん)(正保(しょうほう)元年(がんねん))、幕府(ばくふ)は全国(ぜんこく)の城(しろ)を持(も)つ大名(だいみょう)に城(しろ)と城下町(じょうかまち)をくわしくえがいた図面(ずめん)をつくり提出(ていしゅつ)するように命(めい)じました。このときつくられた図面(ずめん)を「正保城絵図(しょうほうしろえず)」とよびます。現在(げんざい)、63の城絵図(しろえず)がのこされており、この中(なか)に亀山城(かめやまじょう)も含(ふく)まれています。亀山城(かめやまじょう)の整備(せいび)がおわったすぐ後(あと)にこの図面(ずめん)がつくられましたので、完成(かんせい)した亀山城(かめやまじょう)のようすを知(し)ることができます。また、歴史博物館(れきしはくぶつかん)にはこの図面(ずめん)のひかえとしてつくられたものがあります。
本多俊次(ほんだとしつぐ)修築直後(しゅうちくちょくご)の亀山城(かめやまじょう)
(『亀山御城廻御絵図(かめやまじょうおしろまわりおんえず)』を元(もと)に作成(さくせい))
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