3.バトンが渡った醤油醸造場
まずは、江戸時代の醤油醸造場の話しから。明治5年(1872)の時点で、市域には、西町に2軒、東町に2軒、新所村に3軒、木崎村に5軒、坂下村に1人醤油造りをしていたことがわかっているんだ。この時点で醤油造り稼ぎをしていたということは、おそらくもっと前、江戸時代から醤油造りをしていたと考えられるよ。

①そういえば、西町に大きな醤油の醸造場があったなぁ
江戸時代、西町の問屋場であった若林家は、屋号を多倉屋といって、問屋場の業務以外に醤油造りをしていたんだ。その時の建物の図面がのこされているよ。

若林家が建っていたのは、今の西町のお城見庭園のそばだよ。この若林家の図面をみると、若林家は東海道の南に面していたんだね。通り(東海道)に面して問屋場である「人馬継立馬駅」と「店」があるね。そして、奥には醤油蔵や味噌蔵が描かれているから、醤油だけでなく、味噌も造っていたことがわかるんだ。
[3-2]


3-2:差入申一札之事(醤油蔵他借用約定書)
年代:弘化4年(1847)
館蔵田中(稲)家資料
館蔵田中(稲)家資料

この証文は、若林家が弘化4年(1847)に醤油蔵や道具、店を近江国甲賀郡和田村の近江屋久兵衛に貸すにあたり取り交わした約定書なんだ。近江屋は、後に西町で「文武」や「東雲」などの銘柄の酒を造る西谷家(西谷酒造場)のことだよ。この時に、醤油造りは、若林家から西谷家にバトンタッチされたんだね。
この証文によれば、賃料は13年間で金83両2歩、ただし、建物の修理代は家主負担などと取り決められているね。

②リレーのアンカーは日野屋
近江屋(西谷家)が若林家に醤油蔵などを返却した後、今度は若林家から日野屋へ醤油蔵などの建物が売却されたんだ。つまり、醤油造りは、さらに、日野屋へバトンタッチされたんだ。日野屋はこの場所で、昭和64年(1989)まで商売を続けたんだ。そしてこの場所での醤油造りは、日野屋が最後になったんだ。

この通い徳利には「
鈴木酒店」と書かれている。「
鈴木」は西町で山星印醤油を造って販売していた日野屋のことなんだ。じゃあ、なんで「酒店」って書いてあるのかって。それは、東町に支店があって、そこでは酒を造っていたからなんだ。つまり、この通い徳利は支店のものなんだよ。
[3-4]

3-4:別紙約定を以て売り渡す敷地図面
年代:文久元年(1861)
館蔵田中(稲)家資料
館蔵田中(稲)家資料

これは、文久元年(1861)3月に、若林家が鈴木清兵衛(日野屋)へ敷地の東側を譲渡する仮約定をした時の図面だよ。この仮約定をした敷地の範囲には醤油蔵が含まれていて、日野屋が代金を支払い終わった元治2年(1865)正月に正式に譲渡されてるんだ。
それから、この図面は下側が北、つまり東海道側だよ。3-1の図と比べると、味噌蔵の位置が変わっていたり、間取りもだいぶ変わってしまっているね。中央の醤油蔵の釜場も、3-1の図では、蔵の中にあったのに、この図面では、蔵の外になっているんだ。

これは、元治2年(1865)に若林又右衛門から江州日野に住む鈴木清兵衛へ交わされた、若林家の東通地面建物などを譲渡する証文だよ。
この証文によれば、文久元年(1861)に東通地面建物と馬借業務・諸道具を代金280両で譲り受ける仮約定をしていたんだ。その支払いが元治2年に終わったから鈴木清兵衛が正式に醤油蔵を若林家から譲り受けたんだ。つまり、鈴木清兵衛は、この文久2年以降に亀山に来て、日野屋として醤油の醸造をはじめたことになるね。
[3-6]
この図は、日野屋が保管していた屋敷の家相図で、「安政二乙卯年八月稿図 明治八年乙亥一月訂正図書」と書かれている。つまり、まだ近江屋久兵衛(西谷家)が借りている頃に作成された図面を、明治8年(1875)に訂正したものなんだね。この家相図をみると、鈴木清兵衛が若林家と仮約定した文久元年(1861)の図面(3-4)より、南へ敷地広がっているのがわかるね。広がったのは、ちょうど大きめの紙が貼ってある部分だよ。そして、醤油蔵などの醸造場に関わる部分も、東側の空地だった場所へ移っているんだ。黄色で表した醸造場には醤油蔵である「二階蔵」の他に、「室」や「粕入穴」も書かれているね。
その他、『三重県下商工人名録』(明治6年刊)には、日野屋が蝋燭製造もしていたことが記載されているよ。東海道に面した東角の部分には、「蝋蔵」と書かれているから、この場所で造っていたんだね。
この図は、日野屋が保管していた屋敷の家相図で、「安政二乙卯年八月稿図 明治八年乙亥一月訂正図書」と書かれている。つまり、まだ近江屋久兵衛(西谷家)が借りている頃に作成された図面を、明治8年(1875)に訂正したものなんだね。この家相図をみると、鈴木清兵衛が若林家と仮約定した文久元年(1861)の図面(3-4)より、南へ敷地広がっているのがわかるね。広がったのは、ちょうど大きめの紙が貼ってある部分だよ。そして、醤油蔵などの醸造場に関わる部分も、東側の空地だった場所へ移っているんだ。黄色で表した醸造場には醤油蔵である「二階蔵」の他に、「室」や「粕入穴」も書かれているね。
その他、『三重県下商工人名録』(明治6年刊)には、日野屋が蝋燭製造もしていたことが記載されているよ。東海道に面した東角の部分には、「蝋蔵」と書かれているから、この場所で造っていたんだね。
[3-7]


3-7:日野屋しおり
年代:明治時代
館蔵西谷家資料
館蔵西谷家資料

このしおりは、日野屋の宣伝広告だね。この絵は、明治8年(1875)の家相図(3-6)とは間取りが一致しないけれど、絵にも描かれている煙突は実際にあって、平成初期頃まで建てられていたんだ。日野屋は、昭和時代には鈴木醤油株式会社と名前を変えて、昭和64年まで営業したんだよ。
[3-8]


3-8:小林重作商店写真
年代:昭和時代
館蔵小林(昌)家資料
館蔵小林(昌)家資料

これの写真は、安坂山町にあった小林重作商店を写した写真だよ。店舗入口の向かって右側に「
ヤマボシ醤油味噌」と書かれた鈴木醤油株式会社の琺瑯製の看板が掛けられているね。そして左側には、東町で醤油を造っていた合資会社田中醤油店の琺瑯製の看板「
マルタ醤油味噌」が見えるね。特約店だったのかなあ。
[3-9]


3-9:日野屋支店しおり
年代:明治時代
館蔵西谷家資料
館蔵西谷家資料

日野屋は東町に支店をもっていたんだ。支店では醤油ではなく酒を醸造販売していたんだ。このしおりによれば、銘柄は「滋賀」と「さゝ浪」だね。ただ、明治26年(1893)頃に廃業しているみたいだけど。

③市内には、他にも醤油の醸造場があったよ
収蔵品の中には、日野屋以外にも4軒の醤油醸造場の通い徳利が収集されているよ。他にも通い徳利は収集されてないけれど、古い刊行物などから判明した醤油醸造場もあるんだ。さあ、どんな醤油醸造場があったか紹介するね。
| 製造元 | 銘柄 | 住所 | 創業年月日 |
| 日野屋 鈴木重平商店 鈴木醤油(株) |
西町 | 嘉永元年 | |
| 近江屋商店 | 本町 | 明治27年 | |
| 田中屋 田中醤油店 合資会社田中醤油店 |
亀印醤油 | 東町 | 諸説あり ①明治35年 ②明治41年 |
| 岩木屋 | 関町中町 | 明治時代 | |
| 田中屋 田中醤油店 |
関町新所 | 江戸時代 | |
| 境理平 | 東町 (本町か) |
明治18年 | |
| 櫻井久吉 | (亀山町) | ||
| 佐野米造 | (亀山町) |

この徳利に書かれた近江屋は本町でヤマイチ醤油を醸造していた藤川家のことだよ。藤川家は、明治20年頃から昭和40年頃まで営業していたんだ。
それから、収蔵している近江屋の通い徳利には「酒方」と書かれたものもあるんだ。お酒は、仕入れて小売りしていたのかなあ。
[3-11]


3-11:近江屋(藤川家)店先写真
年代:大正10年(1921)頃
藤川家所蔵資料
藤川家所蔵資料

この写真は、近江屋の大正10年(1921)頃の店先の写真だよ。屋根の上の大きな看板に「醤油醸造
近江屋商店」と書かれているね。店の前には醤油を入れる木製の樽が写っているよ。
[3-12]


3-12:近江屋(藤川家)従業員写真
年代:明治時代か
藤川家所蔵資料
藤川家所蔵資料

これは、近江屋の住み込み従業員の集合写真。前掛けには「近江屋茂助醸」とある。『大日本商工録』などの刊行物には、大正3年(1914)~昭和18年(1943)頃の店主は藤川為吉と書かれているから、この写真はそれ以前に撮影されたんじゃないかな。たぶん明治時代。
この写真をよくみると、「笑顔」のラベルを貼った樽に腰掛けた青年が、樽の上で胡座をかいている男性に通い徳利で酒を注いでいるよ。
[3-13]


3-13:近江屋(藤川家)店先写真
年代:戦後
藤川家所蔵資料
藤川家所蔵資料

これは、戦後に撮影された近江屋の店先だよ。店は大正10年(1921)に建て替えられたんだって。
[3-14]


3-14:近江屋(藤川家)醤油醸造場写真
撮影:昭和61年3月
藤川家所蔵資料
藤川家所蔵資料

これは、近江屋醤油醸造場を外から写した写真だね。白い大きな字で「近江屋醤油醸造場」と書かれているね。窓もたくさんあるね。

この徳利は、おそらく粗品として配られたものだね。表側には「最上醤油
」、裏側には「近江屋商店」と書かれているよ。

この通帳は、近江屋藤川商店(本町)の通帳だよ。この通帳には、商品名に「藤一」と書いてあるよ。「藤一」は、近江屋で造っていた醤油の名前の一つかなあ。

これは、関町中町で明治時代から昭和45年(1970)まで営業していた岩木屋の通い徳利だね。岩木屋は最初は酒造りを主にしていたんだけど、途中から味噌や醤油の醸造をするようになったんだって。そして、昭和28年(1953)から45年(1970)までは醸造はやめて、亀山の問屋から仕入れて小売りをしていたんだって。

これは、関町新所で醤油醸造をしていた田中醤油店の通い徳利だよ。田中屋は屋号だね。醸造していたのは、江戸時代から戦中(昭和20年(1887)頃)までと伝わっているんだ。戦後から平成3年(1991)までは小売りをしていたんだって。
[3-19]


3-19:田中醤油店写真
年代:大正時代か
館蔵資料
館蔵資料

これは、東町一丁目にあった田中醤油店を写したもの。田中醤油店は、屋号は田中屋といい、「亀印」という銘柄の醤油を醸造していたんだ。
この写真は、店の開業祝いなのかな。店の前には醤油樽を積んだ大八車があって、その奥には法被を着た従業員の姿も見えるよ。配達の出発式かもしれないね。
それと、田中醤油店は、大正10年頃から合資会社田中醤油店になっているよ。でもいつ廃業したかはよくわからないんだ。










