江戸時代(えどじだい)の新田開発(しんでんかいはつ)の中心(ちゅうしん)となった人物(じんぶつ)
辺法寺村(へんぼうじむら)佐藤源蔵(さとうげんぞう)
辺法寺村(へんぼうじむら)の常州屋(じょうしゅうや)という大金持(おおがねも)ちで、安楽川(あんらくがわ)をまっすぐにつけかえる大工事(だいこうじ)をおこなって、川(かわ)のあとやそのまわりの広(ひろ)い面積(めんせき)を新田(しんでん)として開発(かいはつ)しました。この時(とき)、もともと辺法寺村(へんぼうじむら)で田畑(たばた)を持(も)っていた人々(ひとびと)と、田畑(たばた)で働(はたら)いてくれる人(ひと)のうばいあいがおきましたが、その後(あと)は村(むら)の人々(ひとびと)がたいへん助(たす)かったと感謝(かんしゃ)されています。1818年(ねん)(文政(ぶんせい)元年(がんねん))102歳(さい)で亡(な)くなりました。
中町(なかまち)の橋爪休意(はしづめきゅうい)
江戸時代(えどじだい)、関(せき)の中町(なかまち)に橋爪家(はしづめけ)という富豪(ふごう)の商家(しょうか)があり、当主(とうしゅ)の休意(きゅうい)は人徳者(じんとくしゃ)として知(し)られていました。1681年(ねん)(天和(てんな)元年(がんねん))に木崎村(こざきむら)の古川(ふるかわ)の田(た)が洪水(こうずい)により壊滅(かいめつ)した際(さい)、自費(じひ)で堤(つつみ)を修復(しゅうふく)し、翌年(よくねん)、新田(しんでん)として復活(ふっかつ)させました。その後(ご)、1696年(ねん)(元禄(げんろく)9年(ねん))には一ノ瀬村(いちのせむら)に井溝(いこう)(用水路(ようすいろ))を掘(ほ)って、そこから水(みず)を引(ひ)き、新所村(しんじょむら)鐘鋳場(かねいば)に新田(しんでん)を開発(かいはつ)しました。この新田(しんでん)を休意新田(きゅういしんでん)と呼びます。
野尻村(のじりむら)打田権四郎(うちだごんしろう)
300年(ねん)ほど前(まえ)の大庄屋(おおしょうや)。新田開発(しんでんかいはつ)など地域(ちいき)のために力(ちから)をつくしたほか、亀山(かめやま)の領地(りょうち)をようすをくわしく記録(きろく)した「九々五集(くくごしゅう)」をまとめました。