南北朝(なんぼくちょう)の動乱(どうらん)と亀山(かめやま)
鎌倉幕府(かまくらばくふ)が倒(たお)れた後(あと)、天皇家(てんのうけ)が分裂(ぶんれつ)して50年間(ねんかん)ほどの動乱(どうらん)が続(つづ)きます(南北朝(なんぼくちょう)の動乱(どうらん))。このころの伊勢国(いせのくに)は、南伊勢(みなみいせ)に南朝方(なんちょうがた)の北畠氏(きたばたけし)が勢力(せいりょく)を誇(ほこ)り、現在(げんざい)の津市付近(つしふきん)には北朝(ほくちょう)の伊勢国守護(いせのくにしゅご)が拠点(きょてん)をおいていました。亀山市域(かめやましいき)は北朝(ほくちょう)・南朝方(なんちょうがた)の両方(りょうほう)の軍(ぐん)が通(とお)るため、戦(たたか)いが近(ちか)づくとたびたび鈴鹿峠(すずかとうげ)の通行(つうこう)ができなくなりました。
伊勢国(いせのくに)の武士(ぶし)たち
南北朝(なんぼくちょう)の動乱(どうらん)に伊勢国(いせのくに)の武士(ぶし)も巻(ま)き込(こ)まれてゆきます。亀山市域(かめやましいき)では、たびたび幕府軍(ばくふぐん)が滞在(たいざい)していたとみられ、関氏(せきし)も伊勢国守護(いせのくにしゅご)と行動(こうどう)をともにしています。その後(あと)は北畠氏(きたばたけし)との関係(かんけい)を深(ふか)めており、1429年(ねん)(正長(しょうちょう)2年(ねん))には北畠氏(きたばたけし)とともに幕府軍(ばくふぐん)とたたかっています。