亀山こども歴史館トップページ 日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)鈴鹿関跡(すずかのせきあと)

[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。

鈴鹿関跡(すずかのせきあと)

鈴鹿関(すずかのせき)は、関町新所(せきちょうしんじょ)のあたりにあったと考(かんが)えられています。現在(げんざい)確認(かくにん)されているのは、鈴鹿関(すずかのせき)の西側(にしがわ)にあった城壁跡(じょうへきあと)のみで、観音山(かんのんやま)から城山(しろやま)を経(へ)て鈴鹿川(すずかがわ)にいたる南北(なんぼく)700mに高(たか)い塀(へい)が築(きず)かれていました。なお、亀山市関町(かめやましせきちょう)の地名(ちめい)は、鈴鹿関(すずかのせき)があったことから、関(せき)とよぶようになったものです。

 

鈴鹿関(すずかのせき)のはじまり

鈴鹿関(すずかのせき)は、672年(ねん)の壬申(じんしん)の乱(らん)のときには、すでにあったとされますが、本当(ほんとう)はいつおかれたのかよくわかっていません。718年(ねん)につくられた養老律令(ようろうりつりょう)には関(せき)についてのきまりが定(さだ)められていますので、約(やく)1,300年前(ねんまえ)には整備(せいび)されていたものとみられます。

 

鈴鹿関(すずかのせき)のやくわり

古代(こだい)の関(せき)は、通行(つうこう)する人(ひと)を監視(かんし)して犯罪者(はんざいしゃ)が都(みやこ)へ入(はい)ることを防(ふせ)ぐとともに、反乱(はんらん)を起(お)こそうとしている人(ひと)が、兵(へい)を集(あつ)めるために都(みやこ)から東日本(ひがしにほん)へ逃亡(とうぼう)することを防(ふせ)ぐためにおかれました。

 

鈴鹿関(すずかのせき)のつくり

養老律令(ようろうりつりょう)の関(せき)についての定(さだ)めから、鈴鹿関(すずかのせき)には、通行(つうこう)を止(と)める門(もん)と塀(へい)、関(せき)を管理(かんり)する役所(やくしょ)と、兵士(へいし)たちのいた建物(たてもの)、武器(ぶき)や食料(しょくりょう)を保存(ほぞん)する倉庫(そうこ)があったとみられます。ただし、現在(げんざい)その存在(そんざい)がわかっているのは、西側(にしがわ)の塀(へい)だけです。

 

鈴鹿関(すずかのせき)の終(お)わり

789年(ねん)になると、通行(つうこう)のさまたげになるという理由(りゆう)で、不破関(ふわのせき)、愛発関(あらちのせき)とともに鈴鹿関(すずかのせき)も廃止(はいし)されています。関(せき)にあった武器(ぶき)や食料(しょくりょう)は伊勢国府(いせこくふ)に納(おさ)められ、建物(たてもの)は鈴鹿郡(すずかぐん)の役所(やくしょ)(鈴鹿郡衙(すずかぐんが))に移築(いちく)されたようです。

 

鈴鹿関跡(すずかのせきあと)をさがす

鈴鹿関(すずかのせき)が789年(ねん)に廃止(はいし)あれた後(あと)、関(せき)がどこにあったのかまったくわからなくなっていました。鈴鹿関跡(すずかのせきあと)を探(さぐ)る研究(けんきゅう)は江戸時代(えどじだい)から続(つづ)けられてきましたが、2005年(ねん)4月(がつ)28日(にち)に亀山市教育委員会(かめやましきょういくいいんかい)の森川幸雄(もりかわゆきお)さんが関町新所(せきちょうしんじょ)の観音山南側(かんのんやまみなみがわ)で、奈良時代(ならじだい)の瓦(かわら)が埋(う)もれている場所(ばしょ)を発見(はっけん)しました。ここから鈴鹿関跡(すずかのせきあと)の本格的(ほんかくてき)な調査(ちょうさ)がスタートしました。

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