壬申(じんしん)の乱(らん)と亀山(かめやま)
天智天皇(てんちてんのう)が亡(な)くなると、その跡継(あとつ)ぎをめぐって672年(ねん)6月(がつ)に大友皇子(おおとものおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の間(あいだ)で戦(たたか)いが起(お)こります。大海人皇子(おおあまのおうじ)は亀山市域(かめやましいき)を通(とお)って美濃国(みののくに)で兵(へい)を集(あつ)め、戦(たたか)いに勝利(しょうり)します。大海人皇子(おおあまのおうじ)は即位(そくい)して天武天皇(てんむてんのう)となり、律令国家(りつりょうこっか)を作(つく)り上(あ)げてゆきます。
大海人皇子(おおあまのおうじ)が通(とお)ったところ
672年(ねん)の壬申(じんしん)の乱(らん)において、大海人皇子(おおあまのおうじ)一行(いっこう)は、6月(がつ)25日(にち)に加太越(かぶとご)えで鈴鹿関(すずかのせき)に到着(とうちゃく)し、その夜(よる)に、川崎町堂坂付近(かわさきちょうどうさかふきん)と伝(つた)えられる「川曲坂本(かわわのさかもと)」で小休止(しょうきゅうし)します。この後(あと)、「鈴鹿関(すずかのせき)」に到着(とうちゃく)した大津皇子(おおつおうじ)が合流(ごうりゅう)するなど、亀山市域(かめやましいき)での大海人皇子(おおあまのおうじ)の動(うご)きは戦(たたか)いの大(おお)きな転回点(てんかいてん)となりました。