戦時下(せんじか)のくらし
戦時下(せんじか)では、国民(こくみん)の生活(せいかつ)があらゆる面(めん)で制限(せいげん)されました。ラジオや新聞(しんぶん)・雑誌(ざっし)などのメディアは戦争(せんそう)の内容(ないよう)が多(おお)く報道(ほうどう)されました。また、戦況(せんきょう)が悪化(あっか)すると、戦地(せんち)での兵隊(へいたい)の苦労(くろう)を思(おも)い、街頭(がいとう)には、「贅沢(ぜいたく)は敵(てき)だ」「欲(ほ)しがりません、勝(か)つまでは」などの看板(かんばん)が立(た)てられ、「お国(くに)のため」に貧(まず)しさを我慢(がまん)する生活(せいかつ)が強(し)いられました。
隣組(となりぐみ)
戦争中(せんそうちゅう)の1940年(ねん)(昭和(しょうわ)15年(ねん))、国民統制(こくみんとうせい)のために5から10軒(けん)を1組(くみ)とした地域住民組織(ちいきじゅうみんそしき)が部落会(ぶらくかい)・町内会(ちょうないかい)の下(した)に設(もう)けられました。これを隣組(となりぐみ)といいます。隣組(となりぐみ)は、物資(ぶっし)の配給(はいきゅう)・金属(きんぞく)の供出(きょうしゅつ)・戦争(せんそう)への動員(どういん)などを行(おこな)いました。
大日本婦人会(だいにほんふじんかい)
1942年(ねん)(昭和(しょうわ)17年(ねん))、戦前(せんぜん)よりあった愛国婦人会(あいこくふじんかい)や大日本国防婦人会(だいにほんこくぼうふじんかい)(1932〜1942年(ねん))を一緒(いっしょ)にして大日本婦人会(だいにほんふじんかい)が結成(けっせい)されました。大日本婦人会(だいにほんふじんかい)は、20歳以上(さいいじょう)の婦人(ふじん)が強制的(きょうせいてき)に加入(かにゅう)させられ、国防訓練(こくぼうくんれん)や奉仕活動(ほうしかつどう)などをおこない、国内(こくない)の守(まも)りに徹(てっ)しました。
学徒動員(がくとどういん)(学徒勤労動員(がくときんろうどういん))
子供達(こどもたち)も戦争(せんそう)に無関係(むかんけい)ではなく、1938年(ねん)(昭和(しょうわ)13年(ねん))になると、学徒動員(がくとどういん)として、12歳以上(さいいじょう)の生徒(せいと)が、学校(がっこう)へ通(かよ)いながら農業(のうぎょう)や奉仕活動(ほうしかつどう)・軍用品(ぐんようひん)に関(かん)する作業(さぎょう)などに従事(じゅうじ)させられました。この学徒動員(がくとどういん)は、1944年(ねん)(昭和(しょうわ)19年(ねん))になると、さらに強化(きょうか)され、学校(がっこう)へは通(かよ)わず集団(しゅうだん)で軍需工場(ぐんじゅこうじょう)で働(はたら)きました。
物資(ぶっし)の不足(ふそく)
戦局(せんきょく)が悪化(あっか)したことにより、国内(こくない)の食(た)べ物(もの)や日用品(にちようひん)などの物資(ぶっし)が不足(ふそく)しました。1940年(ねん)(昭和(しょうわ)15年(ねん))には、男子(だんし)の標準服(ひょうじゅんふく)として国民服(こくみんふく)が定(さだ)められました。国民服(こくみんふく)は一見(いっけん)軍服(ぐんぷく)に似(に)ています。いざという時(とき)は軍服(ぐんぷく)の代用(だいよう)にもできるように考案(こうあん)されました。その後(ご)の1942年(ねん)(昭和(しょうわ)17年(ねん))には、服(ふく)を買(か)うのに「衣料切符(いりょうきっぷ)」が必要(ひつよう)になり、切符(きっぷ)の点数分(てんすうぶん)しか衣服(いふく)を買(か)うことができなくなりました。
供出(きょうしゅつ)
戦地(せんち)での武器(ぶき)が不足(ふそく)したことから、政府(せいふ)は、翌(よく)1943年(ねん)(昭和(しょうわ)18年(ねん))に、武器(ぶき)を作(つく)るために必要(ひつよう)な金属(きんぞく)を家庭(かてい)などから強制的(きょうせいてき)に回収(かいしゅう)しました。このため、家庭(かてい)から、鍋(なべ)などの様々(さまざま)な金属製品(きんぞくせいひん)が消(き)えた他(ほか)、寺(てら)からは、釣(つ)り鐘(がね)が供出(きょうしゅつ)(要請(ようせい)に応(おう)じて差(さ)し出(だ)すこと)されました。家庭(かてい)の金属製品(きんぞくせいひん)が回収(かいしゅう)されたため、陶器製(とうきせい)のボタン、お湯(ゆ)を入(い)れて使(つか)うアイロンやコテ、湯(ゆ)たんぽなど金属製品(きんぞくせいひん)の代用品(だいようひん)が使(つか)われました。