集団学童疎開(しゅうだんがくどうそかい)
1944年(ねん)(昭和(しょうわ)19年(ねん))頃(ころ)になると、戦況(せんきょう)は悪化(あっか)し、アメリカによる日本本土(にほんほんど)への空爆(くうばく)が行(おこな)われるようになりました。そこで、空爆(くうばく)を受(う)けやすい都市(とし)に住(す)んでいる3年生(ねんせい)から6年生(ねんせい)の児童(じどう)を対象(たいしょう)に、地方(ちほう)へ避難(ひなん)させる疎開(そかい)が行(おこな)われました。疎開(そかい)をする児童達(じどうたち)のうち、地方(ちほう)に頼(たよ)ることのできる知(し)り合(あ)いがいない子供達(こどもたち)は、学校単位(がっこうたんい)で教師(きょうし)に引率(いんそつ)されて疎開(そかい)しました。これを集団学童疎開(しゅうだんがくどうそかい)といいます。疎開先(そかいさき)は寺(てら)・公民館(こうみんかん)・旅館(りょかん)などが多(おお)く、亀山(かめやま)へも、名古屋市立東白壁国民学校(なごやしりつひがししらかべこくみんがっこう)・白川国民学校(しらかわこくみんがっこう)・久屋国民学校(ひさやこくみんがっこう)など名古屋(なごや)から児童(じどう)が集団疎開(しゅうだんそかい)し、関町(せきちょう)の宝林寺(ほうりんじ)・弘善寺(こうぜんじ)・瑞光寺(ずいこうじ)・福藏寺(ふくぞうじ)・長徳寺(ちょうとくじ)・金光教教会(こんこうきょうきょうかい)・浄安寺(じょうあんじ)・地蔵院(じぞういん)、亀山町(かめやまちょう)の誓昌院(せいしょういん)・法因寺(ほういんじ)・福泉寺(ふくせんじ)・遍照寺(へんしょうじ)・善導寺(ぜんどうじ)・梅巌寺(ばいがんじ)・光明寺(こうみょうじ)・蓮光寺(れんこうじ)・柏屋(かしわや)(旅館(りょかん))などが受(う)け入(い)れています。