鈴鹿関跡(すずかのせきあと)
「伊勢(いせ)鈴鹿関(すずかのせき)」「美濃(みの)不破関(ふわのせき)」「越前(えちぜん)愛発関(あらちのせき)」。古代(こだい)における三関(さんげん)は、律令(りつりょう)三関(さんげん)とも呼(よ)ばれ律令(りつりょう)にその設置(せっち)が明確(めいかく)に定(さだ)められた重要(じゅうよう)な関所(せきしょ)で、それぞれの国(くに)の国司(こくし)が直接(ちょくせつ)管理(かんり)することとなっていました。三関(さんげん)が設置(せっち)された背景(はいけい)には、壬申(じんしん)の乱(らん)において都(みやこ)と東国(とうごく)を遮断(しゃだん)できなかったことが大友皇子(おおとものみこ)の敗因(はいいん)となったことがあげられます。鎌倉時代(かまくらじだい)までは三関(さんげん)から東(ひがし)を「関東(かんとう)」、西(にし)を「関西(かんさい)」と呼(よ)んでいました。