亀山市歴史博物館
凡例   ・研究ノート・クイズ   ・体験グッズ   ・出品目録   ・参考文献   ・ポスター・チラシ   ・奥付
TOP




テーマ















1−@ んぼやはたけではたらくうし


日本にほんでは、うしうま使つかってんぼ・畑はたけをたがやすことがながつづけられていました。おもに西日本にしにほんではうし東日本ひがしにほんではうまを使ったと言われています。亀山市内かめやましないは、牛を使っていたことがわかっていますので、その意味いみでは、西日本のとくちょうをっているということになります。ただし、すべてのいえに牛がいたわけではなく、牛をりて農業のうぎょうに使った家もおおかったようですが、だんだんと牛をえる家がえたようです。しかし、昭和しょうわ40年代には、耕運機こううんきひろまり、牛を使ってたがやす人はほとんどいなくなりました。

画像クリック

田んぼをたがやす牛
(安坂山町池山)

個人所蔵資料
画像クリック

首木くびきくらなどをつけた牛
(安坂山町池山)

個人所蔵資料
画像クリック

牛で田んぼをおこす
(天神)

個人所蔵資料

牛の首木くびきくら
亀山市歴史博物館所蔵松上家資料

牛の鼻木はなぎ
亀山市歴史博物館所蔵松上家資料


ページのtopへ戻る

1−A うし使つかってはこぶ


画像クリック

牛で荷車にぐるまをひいて荷物にもつを運ぶ
(本町・昭和30年代前半)
牛は田んぼや畑の仕事しごとだけではなく、ものをはこぶ仕事もしていました。牛に荷車にぐるまをつけてひかせることで、おも荷物にもつとおくまではこぶことができるため、おもに農業のうぎょう道具どうぐ農作物のうさくもつったなどをはこばせていました。このように、牛(または馬)でひく荷車にぐるまは、「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」などの名前なまえ税金ぜいきんがかけられていました。
 では、どれくらいのかずの牛が荷物にもつをはこんでいたのでしょうか。たとえば、明治めいじ41年(1908年)12月には、当時とうじ亀山町かめやまちょうで「荷馬車にばしゃ」が4だい、「牛車ぎゅうしゃ」が7台あったという記録きろくがあります。もちろん、この時代じだいの亀山町に自動車じどうしゃはありませんでした(「鈴鹿郡亀山町郷土誌すずかぐんかめやまちょうきょうどし」)。
昭和しょうわ26年(1951年)の亀山町には、26台の自動車じどうしゃ・140だいの「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」がありましたが、当時とうじは360とうの牛がわれていた一方いっぽう、馬は4とうだけでしたので、「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」をひいていたのは、ほとんどが牛だったとかんがえられます(『亀山町町勢要覧かめやまちょうちょうせいようらん昭和しょうわ26年度版どばん)。
    亀山市かめやまし荷積牛馬車にづみぎゅうばしゃ(小)標識ひょうしき

画像クリック

亀山市歴史博物館所蔵浅野家資料
うしうまでひく荷車にぐるまにつけた標識ひょうしきです。亀山市の標識ひょうしきですので、市ができた昭和しょうわ29年以降いこうのものだということになります。いま自動車じどうしゃなどのナンバープレートのようなものです。
昭和しょうわ28年(1953年)の亀山町には、27だい自動車じどうしゃ・155だいの「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」がありました。ちなみに、そのとき自動車じどうしゃは町民の585人に1だい、「荷牛馬車にぎゅうばしゃ」は農家のうかの7世帯せたいに1だい割合わりあいだったとされます(『亀山町町勢要覧かめやまちょうちょうせいようらん昭和しょうわ28年度版どばん)。
 そして、昭和しょうわ29年(1954年)の合併がっぺいによって誕生たんじょうした亀山市でも、昭和しょうわ31年(1956年)に222だい自動車じどうしゃ自動三輪車じどうさんりんしゃふくむ)・724だいの「牛馬車」(『亀山市市勢要覧かめやまししせいようらん昭和しょうわ32年度版どばん)であり、まだまだ牛馬車ぎゅうばしゃ、すなわち牛が荷物にもつをはこぶためにかつやくした時代じだいだったことがわかります。


ページのtopへ戻る

1−B うしうま市場いちば


明治時代めいじじだいわりごろ、亀山町かめやまちょうによってひらかれた「亀山町定期家畜市場かめやまちょうていきかちくいちば」は、大正たいしょう10年(1921年)には個人こじんによる家畜市場かちくいちばになっていたとされ、それを「鈴鹿郡畜産組合すずかぐんちくさんくみあい」がって「亀山常設家畜市場かめやまじょうせつかちくいちば」としました。
昭和しょうわ19年(1944年)ころまでは、いま亀山中学校かめやまちゅうがっこうのグランドあたりで市場いちばひらかれていましたが、太平洋戦争たいへいようせんそう影響えいきょうでほとんど休業きゅうぎょうとなりました。そして、戦争せんそうわって、昭和しょうわ22年(1947年)に結成けっせいされた「亀山家畜商業協同組合かめやまかちくしょうぎょうきょうどうくみあい」による家畜市場かちくいちばが、今の亀山市文化会館かめやしまぶんかかいかんのあたりでひらかれるようになりました(昭和しょうわ45年に移転いてん。『亀山のあゆみ』)。
 亀山の家畜市場かちくいちばでは、馬も少しあつかっていましたが、取引とりひき中心ちゅうしんは牛でした。昭和しょうわ30年度には、9829とうの牛が入場にゅうじょうし、そのうちの8104とう売買ばいばいされました(『亀山市市勢要覧かめやまししせいようらん昭和しょうわ32年度版どばん)。

画像クリック

家畜市場かちくいちば
現在げんざい市文化会館しぶんかかいかんのあたり)
画像クリック

家畜市場かちくいちば
(現在げんざいの亀山中学校のグラウンド
あたりか・昭和初期)

個人所蔵資料
画像クリック

おもに農業のうぎょう使つかわれていた牛
(天神)

個人所蔵資料



    亀山町定期家畜市場かめやまちょうていきかちくいちば敷地しきちすための契約証けいやくしょう

画像クリック

  亀山市歴史博物館個人寄託資料
 この契約証けいやくしょうによって、明治めいじ44年(1911年)3月12日に「亀山町定期家畜市場かめやまちょうていきかちくいちば」の敷地しきちりる契約けいやくがむすばれていることがわかります。伊勢新聞いせしんぶん(明治44年2月8日、19日)によると、明治44年2月3日、4日の亀山町議会かめやまちょうぎかいで、町営ちょうえい家畜市場かちくいちばひらくことがみとめられているので、1カ月以上いじょうかかって、市場いちばひら場所ばしょを見つけたことになります。その場所ばしょは、亀山町大字おおあざ亀山字旧館あざきゅうかん575番の1と書かれており、おそらく亀山中学校かめやまちゅうがっこう運動場うんどうじょうあたりだとかんがえられます。


ページのtopへ戻る

1−C 大切たいせつにされたうし



むかしながらのいえ間取まどりのれい黄色きいろでぬった部分ぶぶん牛小屋うしごや
「まや」とばれる牛小屋うしごやいえなかにあるところもおおく、人と牛がおな屋根やねの下にくらしていたことをかんがえると、牛をとても大切たいせつにしていたことがわかります。また、田んぼや畑ではだいじょうぶですが、牛が荷物にもつをはこぶためにみちあるときにはひづめつめ)をいためてしまうことがあるため、いなわらでつくったわらじをはかせていました。
画像クリック

牛のわらじ
亀山市歴史博物館所蔵
鳥居家資料
いえによっては、正月しょうがつにのどにつまらないように小さくったもちを入れたお雑煮ぞうにを牛にべさせることもありました。


ページのtopへ戻る

   



Copyright 2015 Kameyama City Historical Museum