さまざまな古代遺跡(こだいいせき)
伊勢国府跡(いせこくふあと)
現在(げんざい)の亀山市能褒野町(かめやましのぼのちょう)から鈴鹿市広瀬町(すずかしひろせちょう)にかけて広(ひろ)がる「長者屋敷遺跡(ちょうじゃやしきいせき)」は、古代(こだい)の伊勢国(いせのくに)の政治的(せいじてき)な中心(ちゅうしん)となる伊勢国府(いせこくふ)の跡(あと)として2002年(ねん)に国史跡(くにしせき)に指定(してい)されています。伊勢国(いせのくに)は鈴鹿関(すずかのせき)を管理(かんり)していましたので、国府(こくふ)は関(せき)の近(ちか)くに置(お)かれていました。
網中遺跡(あみなかいせき)
辺法寺町(へんぼうじちょう)にあるムラの跡(あと)で、住居跡(じゅうきょあと)がみつかっています。住居跡(じゅうきょあと)には、カマドが設(もう)けられ、甕(かめ)の底(そこ)を抜(ぬ)いたものを2つつなげて煙突(えんとつ)としていたものもありました。このような住居(じゅうきょ)がこの時代(じだい)の集落(しゅうらく)の基本(きほん)であったと思(おも)われます。
田茂遺跡(たもいせき)
田茂町(たもちょう)の中の川(なかのがわ)すぐ近(ちか)くにある遺跡(いせき)で、奈良時代(ならじだい)から室町時代(むろまちじだい)の土器(どき)とともに奈良時代(ならじだい)の円形(えんけい)の硯(すずり)もみつかっています。田茂遺跡(たもいせき)は役所(やくしょ)や寺跡(てらあと)ではないとみられますので、奈良時代(ならじだい)にはふつうのムラでも文字(もじ)が使(つか)われていたことがうかがえます。
御座遺跡(みざいせき)
阿野田町(あのだちょう)にある遺跡(いせき)ですが、くわしいことはわかっていません。1930年(ねん)(昭和(しょうわ)5年(ねん))ころに、電柱(でんちゅう)を立(た)てる工事中(こうじちゅう)に和同開珎(わどうかいちん)がみつかっています。
糀屋垣内遺跡(こうじやがいといせき)
羽若町(はわかちょう)から亀田町(かめだちょう)にかけて広(ひろ)がるムラの跡(あと)です。飛鳥時代頃(あすかじだいころ)にムラが誕生(たんじょう)したとみられ、飛鳥時代(あすかじだい)から奈良時代(ならじだい)の住居跡(じゅうきょあと)がみつかっています。
大鼻遺跡(おおはないせき)
太岡寺町(たいこうじちょう)にあるムラの跡(あと)で、奈良時代(ならじだい)の住居跡(じゅうきょあと)がみつかっています。また、ハスの花(はな)の文様(もんよう)の飛鳥時代(あすかじだい)の軒先(のきさき)の瓦(かわら)もみつかっており、市内(しない)で一番(いちばん)古(ふる)い寺院(じいん)があった可能性(かのうせい)があります。見(み)つかった瓦(かわら)は、桑名市(くわなし)や朝日町(あさひちょう)で同(おな)じ文様(もんよう)のものがみつかっており、壬申(じんしん)の乱(らん)で功績(こうせき)があった豪族(ごうぞく)たちとの関係(かんけい)があるとみられます。
地蔵僧遺跡(じぞうそういせき)
川崎町(かわさきちょう)にあるムラの跡(あと)で、古墳時代(こふじだい)から続(つづ)いてムラが営(いとな)まれています。住居跡(じゅうきょあと)にはかまどが設(もう)けられたあとがあり、古墳時代(こふんじだい)から室内(しつない)の炉(ろ)からかまどでの煮(に)たきするくらしぶりに変化(へんか)があったことがうかがえます。

![[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。](../../../../img/text_01.gif)














