亀山こども歴史館トップページ 日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)さまざまな古墳(こふん)

東日本と西日本の境にあたる亀山市域は、日本の歴史の重要な場面で、大きくかかわりを持っています。その亀山市の歴史を時代ごとに追ってみることにしましょう。

さまざまな古墳

笹ケ平古墳 関台古墳 木下古墳 躰光寺古墳群 山下古墳 沢古墳群 大垣内古墳 大鼻遺跡 陰涼寺山横穴墓群 東樺野2号墳 井尻古墳 正知浦古墳群 柴戸遺跡 柴戸古墳群 釣鐘山古墳 上椎ノ木1号墳 城山古墳 井田川茶臼山古墳 名越古墳 能褒野古墳群 能褒野王塚古墳 地蔵僧遺跡 徳原古墳群 網中遺跡

笹ケ平古墳(ささがひらこふん)

関町金場(せきちょうかねば)と加太市場(かぶといちば)の間(あいだ)にある古墳(こふん)で、鈴鹿川(すずかがわ)のもっとも上流(じょうりゅう)にあります。加太川(かぶとがわ)に面(めん)した山(やま)のゆるやかな斜面(しゃめん)に1基(き)だけあります。大(おお)きな石(いし)を割(わ)って積(つ)み上(あ)げた、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)だけが残(のこ)っています。石室(せきしつ)の形(かたち)から、1400年(ねん)ほど前(まえ)に作(つく)られたものと考(かんが)えられます。市内(しない)にある他(ほか)の古墳(こふん)の石室(せきしつ)と違(ちが)い、伊賀地域(いがちいき)の古墳(こふん)の石室(せきしつ)と似(に)ています。

関台古墳(せきだいこふん)

関町木崎(せきちょうこざき)にあった古墳(こふん)です。横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は確認(かくにん)されていますが、古墳(こふん)の大(おお)きさはよくわかりません。みつかった土器(どき)は、1400年(ねん)ほど前(まえ)のもので、この中(なか)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)南西部(なんせいぶ)(百済(くだら))と同(おな)じ形(かたち)の土器(どき)もみつかっており、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から渡(わた)ってきた人々(ひとびと)とこの地域(ちいき)との関係(かんけい)があったことを示(しめ)しています。

木下古墳(このしたこふん)

木下町(このしたちょう)にあった全長(ぜんちょう)30.5mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、少(すく)なくとも、3体(たい)がほうむられてされていると見(み)られ、刀(かたな)や矢(や)じり、銅鏡(どうきょう)が棺(ひつぎ)の中(なか)に入(い)れられていました。古墳上(こふんじょう)には、人物(じんぶつ)や家形(いえがた)を含(ふく)む埴輪(はにわ)が並(なら)べられており、円筒埴輪(えんとうはにわ)の底部(ていぶ)には段(だん)が見(み)られます。5世紀末(せいきまつ)に築(きず)かれ、6世紀前半(せいきぜんはん)まで続(つづ)いた古墳(こふん)とみられます。

太岡寺古墳群(たいこうじこふんぐん)

太岡寺町(たいこうじちょう)にあった6基(き)の古墳(こふん)で、このうちの3基(き)は横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をもつものです。石室(せきしつ)の内部(ないぶ)からは大量(たいりょう)の須恵器(すえき)がみつかっています。1500年(ねん)ほど前(まえ)から1400年(ねん)ほど前(まえ)までの間(あいだ)に順番(じゅんばん)にきずかれたものと考(かんが)えられます。

山下古墳(やましたこふん)

山下町(やましたちょう)にある全長(ぜんちょう)35mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、1500年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたと考(かんが)えられます。明治時代(めいじじだい)まで神社(じんじゃ)がまつられていたため、一部(いちぶ)が大(おお)きくくずされ、その部分(ぶぶん)に「山下神社跡(やましたじんじゃあと)」の石碑(せきひ)が建(た)てられています。円筒埴輪(えんとうはにわ)が出土(しゅつど)していますが、円筒埴輪(えんとうはにわ)の底(そこ)に段(だん)はみられません。

沢古墳群(さわこふんぐん)

山下町(やましたちょう)にあった古墳群(こふんぐん)で、1500年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれた直径(ちょっけい)15mほどの古墳(こふん)が5基(き)みつかっています。600年(ねん)ほど前(まえ)に城(しろ)(山下城(やましたじょう))がきずかれたため、古墳(こふん)はすべてこわされ、古墳(こふん)のまわりのみぞだけがのこっていました。みぞの中(なか)から刀(かたな)や壺(つぼ)に入(い)れた石製小玉(いしせいこだま)などがみつかっています。

大垣内古墳(おおがいとこふん)

山下町(やましたちょう)にあった古墳(こふん)で、1500年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたと考(かんが)えられます。直径(ちょっけい)20mほどの円墳(えんぷん)で、横矧板鋲留(よこはぎいたびょうどめ)短甲(たんこう)、鉄(てつ)ヤリ、鉄(てつ)ホコ、鉄刀(てっとう)といった武具類(ぶぐるい)と、ノコギリ、ナイフといった工具(こうぐ)が出土(しゅつど)しました。

大鼻遺跡(おおはないせき)

太岡寺町(たいこうじちょう)にあった古墳時代(こふんじだい)のむらの跡(あと)で、66棟(とう)の住居跡(じゅうきょあと)がみつかっています。住居跡(じゅうきょあと)の多(おお)くから、石製(いしせい)の玉(たま)がみつかっており、同(おな)じく石製(いしせい)の玉(たま)が多(おお)くみつかった、鈴鹿川対岸(すずかがわたいがん)の沢古墳群(さわこふんぐん)との関係(かんけい)がうかがえます。また、太岡寺古墳群(たいこうじこふんぐん)とはすぐ東(ひがし)がわの場所(ばしょ)にあたります。

陰涼寺山横穴墓群(いんりょうじやまおうけつぼぐん)

本町一丁目(ほんまちいっちょうめ)から北鹿島町(きたかしまちょう)にかけて、陰涼寺山(いんりょうじやま)のふもとにある古墳時代(こふんじだい)の墓(はか)の跡(あと)です。古墳(こふん)とはちがって、山(やま)の斜面(しゃめん)に横向(よこむ)きに深(ふか)さ10mほどの穴(あな)を掘(ほ)り、その中(なか)に亡(な)くなった人(ひと)を葬(ほうむ)るので、横穴墓(おうけつぼ)と呼(よ)んでいます。全部(ぜんぶ)で10数箇所(すうかしょ)ありますが、今(いま)は埋(う)められてしまい、一(ひと)つも見(み)ることはできません。

正知浦古墳群(しょうちうらこふんぐん)

亀田町(かめだちょう)にあった横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をもつ2基(き)の古墳(こふん)で、石室(せきしつ)は北勢地域(ほくせいちいき)によくみられる形(かたち)をしめしており、6世紀後半(せいきこうはん)ごろに築(きず)かれたものと考(かんが)えられます。台(だい)のついた須恵器(すえき)の壺(つぼ)や金(きん)を貼(は)った耳(みみ)かざり、メノウのまが玉(たま)などがみつかっています。

柴戸遺跡(しばといせき)

川合町(かわいちょう)・和田町(わだちょう)・栄町(さかえまち)にまたがる古墳時代(こふんじだい)はじめごろのムラのあとです。たくさんの土器(どき)がまとまってみつかったことから、椋川(むくがわ)の流域(りゅういき)での中心的(ちゅうしんてき)なムラであったことがうかがえます。みつかった土器(どき)は、伊勢湾岸(いせわんがん)を中心(ちゅうしん)にみられる東海地方(とうかいちほう)の特徴(とくちょう)をもった土器(どき)が多数(たすう)を占(し)めていますが、滋賀県地域(しがけんちいき)のとくちょうを示(しめ)す土器(どき)も含(ふく)まれています。

柴戸古墳群(しばとこふんぐん)

川合町(かわいちょう)、和田町(わだちょう)、栄町(さかえまち)にまたがる範囲(はんい)に12基(き)以上(いじょう)の古墳(こふん)が集(あつ)まっていました。1500年(ねん)ほど前(まえ)に長(なが)さ25mの帆立貝形古墳(ほたてがいがたこふん)が最初(さいしょ)にきずかれ、そのまわりに50年(ねん)ほどの間(あいだ)に小(ちい)さな古墳(こふん)が順番(じゅんばん)にきずかれたことがわかっています。

釣鐘山古墳(つりがねやまこふん)

和田町内(わだちょうない)、椋川(むくがわ)の南側(みなみがわ)にあった古墳(こふん)です。崖(がけ)ぎわにあったため、40年(ねん)ほど前(まえ)に、土採(つちと)りによって崩(くず)れ、現在(げんざい)はなくなっています。本来(ほんらい)の地形(ちけい)に高(たか)さ4mに土(つち)を盛(も)り上(あ)げた、長(はこがた)で、内側(うちがわ)には魔(ま)よけの赤(あか)い顔料(がんりょう)が塗(ぬ)られています。棺(ひつぎ)の中(なか)からは、刀(かたな)や鎌(かま)、ナイフなどの鉄器(てっき)、須恵器(すえき)、ガラス玉(だま)などが見(み)つかっています。この石棺(せっかん)は亀山市歴史博物館(かめやましれきしはくぶつかん)に展示(てんじ)されています。

東樺野(ひがしかばの)2号墳(ごうふん)

菅内町(すがうちちょう)にあった古墳(こふん)です。周囲(しゅうい)にもかなりの数(かず)の古墳(こふん)があったとみられますが、いまでは東(ひがし)にある1号墳(ごうふん)などがのこされているにすぎません。直径(ちょっけい)13mほどの円墳(えんぷん)で、小刀(こがたな)、鉄(てつ)の矢(や)じり、須恵器(すえき)、紡錘車(ぼうすいしゃ)がみつかって出土(しゅつど)しており、1450年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれた古墳(こふん)と考(かんが)えられます。

井尻古墳(いじりこふん)

井尻町(いじりちょう)にある全長(ぜんちょう)54mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、1480年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたものと見(み)られます。後円部(こうえんぶ)の一部(いちぶ)が削(墳(こふん)から見(み)つかる円筒埴輪(えんとうはにわ)は、城山古墳(しろやまこふん)・木下古墳(このしたこふん)と同(おな)じく、底部(ていぶ)に段(だん)のあるものです。

上椎ノ木(かみしいのき)1号墳(ごうふん)

和田町(わだちょう)にあった、南北(なんぼく)22m、東西(とうざい)18mのだ円形(えんけい)の古墳(こふん)です。中心部分(ちゅうしんぶぶん)に長(なが)さ5mの木(き)の棺(ひつぎ)をいれています。棺(ひつぎ)の中(なか)からは、銅鏡(どうきょう)、石(いし)のブレスレット(石釧(いしくしろ))・石製(いしせい)の小型(こがた)つぼ、石(いし)のくびかざりがみつかっています。1650年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたものと考(かんが)えられ、市内(しない)でもっとも古(ふる)い古墳(こふん)です。

城山古墳(しろやまこふん)

みどり町(ちょう)にあった、全長(ぜんちょう)45mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。みどり町(ちょう)の団地(だんち)を造(つく)るために山(やま)を削(けず)っているときにみつかったので、並(なら)んでいる埴輪(はにわ)と古墳(こふん)の表面(ひょうめん)をおおっていた石(いし)のみがみつかっています。1550年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたと考(かんが)えられます。みつかった埴輪(はにわ)は底(そこ)の部分(ぶぶん)に段(だん)を持(も)つもので、このようなとくちょうをもつ埴輪(はにわ)は、鈴鹿川流域(すずかがわりゅういき)から静岡県(しずおかけん)西部地域(せいぶちいき)にかけてみることができます。

井田川茶臼山古墳(いだがわちゃうすやまこふん)

みどり町(ちょう)にあった古墳(こふん)で、1480年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたと考(かんが)えられます。伊勢湾岸地域(いせわんがんちいき)で最初(さいしょ)に横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を用(もち)いた古墳(こふん)のひとつです。龍(りゅう)の文様(もんよう)のある刀(かたな)や銅鏡(どうきょう)などその当時(とうじ)のもっとも新(あたら)しい道具(どうぐ)がみつかっており、古墳時代(こふんじだい)後半(こうはん)の東海地方(とうかいちほう)を代表(だいひょう)する古墳(こふん)のひとつです。残念(ざんねん)なことに調査(ちょうさ)の途中(とちゅう)でこわされてしまいました。歴史博物館(れきしはくぶつかん)に石室(せきしつ)の半分(はんぶん)を復元(ふくげん)した模型(もけい)があります。

名越古墳(なごしこふん)

田村町(たむらちょう)にある全長(ぜんちょう)60mほどあったと思(おも)われる前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。1650年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたと考(かんが)えられ、能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)と同(おな)じく市内(しない)で最(もっと)も古(ふる)い時期(じき)の古墳(こふん)のひとつですです。能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)のすぐ近(ちか)くにあり、この古墳(こふん)と深(ふか)い関係(かんけい)にあることがうかがえます。現在(げんざい)古墳(こふん)は一部(いちぶ)しか残(のこ)っていませんが古墳(こふん)の上(うえ)には埴輪(はにわ)が並(なら)んでいたことがわかっています。

能褒野古墳群(のぼのこふんぐん)

川崎町(かわさきちょう)、田村町(たむらちょう)にまたがる範囲(はんい)に20基(き)以上(いじょう)の古墳(こふん)が集(あつ)まっています。いずれも1450年(ねん)ほど前(まえ)から50年(ねん)ほどの間(あいだ)にきずかれたものとみられます。ヤマトタケルの墓(はか)(能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん))のまわりにあることから、このうちの16基(き)はヤマトタケルの墓(はか)と関係(かんけい)がある古墳(こふん)として宮内庁(くないちょう)が管理(かんり)していますが、能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)との実際(じっさい)の関係(かんけい)はわかっていません。

能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)

田村町(たむらちょう)にある全長(ぜんちょう)90mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、三重県北部(みえけんほくぶ)最大(さいだい)の古墳(こふん)です。1650年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれたと考(かんが)えられ、市内(しない)で最(もっと)も古(ふる)い古墳(こふん)のひとつです。現在(げんざい)はヤマトタケルの墓(はか)とされています。古墳(こふん)の上(うえ)には横(よこ)にヒレのようなねんど板(ばん)をつけた埴輪(はにわ)が並(なら)んでいたことがわかっています。

地蔵僧遺跡(じぞうそういせき)

川崎町(かわさきちょう)にあった古墳時代(こふんじだい)はじめごろのむらのあとで、縄文時代(じょうもんじだい)から続(つづ)けて人(ひと)が住(す)んでいました。見(み)つかった土器(どき)は、伊勢湾(いせわん)の周辺(しゅうへん)でよくみられるもので、東海地方(とうかいちほう)の土器(どき)の広(ひろ)がりをしめす最(もっと)も西(にし)にある遺跡(いせき)のひとつとして注目(ちゅうもく)されています。

徳原古墳群(とくはらこふんぐん)

川崎町(かわさきちょう)にある古墳群(こふんぐん)で、1500年(ねん)ほど前(まえ)にきずかれた、円形(えんけい)の古墳(こふん)26基(き)、方形(ほうけい)の古墳(こふん)3基(き)の合計(ごうけい)29基(き)の古墳(こふん)が集中(古墳(こふん)にほうむられた人々(ひとびと)どうしは家族(かぞく)や親(しん)せきなどの関係(かんけい)が考(かんが)えられます。また、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)南西部(なんせいぶ)(百済(くだら))と同(おな)じ形(かたち)の土器(どき)もみつかっています。

網中遺跡(あみなかいせき)

辺法寺町(へんぼうじちょう)にある遺跡(いせき)で、住居跡(じゅうきょあと)はみつかっていませんが、古墳時代(こふんじだい)の土器(どき)がみつかっていることから、古墳時代(こふんじだい)のむらのあとと考(かんが)えられます。みつかった土器(どき)の中(なか)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)東南部(とうなんぶ)(新羅(しらぎ))の土器(どき)と同(おな)じもようをもつものがあります。

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