明和五年(しょうわごねん)亀山領分(かめやまりょうぶん)八十三ヵ村騒動(はちじゅうさんかそんそうどう)
田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中(ろうじゅう)になる少(すこ)し前(まえ)、亀山藩(かめやまはん)では、江戸幕府(えどばくふ)から命(めい)じられた土木工事(どぼくこうじ)(甲州川普請(こうしゅうかわぶしん))などの費用(ひよう)をつくるため、領民(りょうみん)から税(ぜい)をたくさん取(と)りました。このため農民(のうみん)の負担(ふたん)が増(ふ)え、とうとう1768年(ねん)(明和(めいわ)5年(ねん))に、一揆(いっき)がおこりました。西町(にしまち)・東町(ひがしまち)・野村(のむら)を除(のぞく)く83ヶ村(かそん)の農民達(のうみんたち)は、まず広瀬野(ひろせの)へ集結(しゅうけつ)し、自分(じぶん)たちを苦(くる)しめていた大庄屋(おおじょうや)や庄屋(しょうや)、商人(しょうにん)の家(いえ)を打(う)ち壊(こわ)しながらへ亀山城下(かめやまじょうか)に向(む)けて進(すす)みました。その結果(けっか)、農民達(のうみんたち)の要求(ようきゅう)は叶(かな)えられ、農民達(のうみんたち)を苦(くる)しめていた代官(だいかん)(藩(はん)の役人(やくにん))・大庄屋(おおじょうや)・庄屋(しょうや)が処罰(しょばつ)されました。