安政(あんせい)の地震(じしん)での城下(じょうか)の被害(ひがい)のようす
伊賀上野地震(いがうえのじしん)では、亀山城(かめやまじょう)が大破(たいは)し、神戸櫓大破(かんべやぐらたいは)、護摩堂(ごまどう)・石坂門櫓(いしざかもんやぐら)は倒(たお)れ、大手門櫓(おおてもんやぐら)・中ノ門(なかのもん)・鉄炮櫓(てっぽうやぐら)・石坂門石垣(いしざかもんいしがき)、その他(た)の石垣類(いしがきるい)も壊(こわ)れました。太鼓櫓(たいこやぐら)が倒(たお)れたため、大鼓打(たいこう)ちの中間(ちゅうかん)が1人(り)即死(そくし)、1人(り)は大怪我(おおけが)をしました。家中屋敷(かちゅうやしき)については、塀(へい)などに被害(ひがい)が出(で)、鍋町(なべまち)(本町三丁目(ほんまちさんちょうめ))では即死者(そくししゃ)が2名(めい)出(で)ました。町屋(まちや)では、48軒(けん)が全壊(ぜんかい)、36軒(けん)が半壊(はんかい)しています。
また、東海地震(とうかいじしん)でも、亀山城(かめやまじょう)の三重櫓(さんじゅうやぐら)が傾(かたむ)き、多門(たもん)に被害(ひがい)が出(で)、その他(た)の城下(じょうか)にも大被害(だいひがい)が出(で)ました。
加藤家文書、天野家文書にみる災害のようす