自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)
明治時代前期(めいじじだいぜんき)には、国会開設(こっかいかいせつ)や憲法制定(けんぽうせいてい)を求(もと)め、言論(げんろん)による国民運動(こくみんうんどう)がおこりました。これを自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)といい、亀山(かめやま)でも若者(わかもの)によって快風社(かいふうしゃ)や撹眠社(かくみんしゃ)といった、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)の影響(えいきょう)を受(う)けた団体結社(だんたいけっしゃ)が結成(けっせい)され、たびたび演説会(えんぜつかい)が開(ひら)かれました。
このうち快風社(かいふうしゃ)は、教員(きょういん)を中心(ちゅうしん)とした結社(けっしゃ)で、1879年(ねん)(明治(めいじ)12年(ねん))に関(せき)で藤森良寛(ふじもりよしひろ)や雲林院虎吉(うじいとらきち)が有志者(ゆうししゃ)を集(あつ)めて結成(けっせい)されました。社長(しゃちょう)は鈴関学校(れいかんがっこう)の初代校長(しょだいこうちょう)、荒木三樹(あらきみき)でした。また、同(おな)じ頃(ころ)亀山(かめやま)でも撹眠社(かくみんしゃ)という結社(けっしゃ)があり、1880年(ねん)(明治(めいじ)13年(ねん))3月(がつ)6日(にち)に東町(ひがしまち)で演説会(えんぜつかい)が開(ひら)かれたことが伊勢新聞(いせしんぶん)で報(ほう)じられています。このほかにも、布気村(ふけむら)の清福寺住職(せいふくじじゅうしょく)が発起人(ほっきにん)の結社(けっしゃ)、共義社(きょうぎしゃ)など、いくつかの結社(けっしゃ)がありました。
自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)による結社(けっしゃ)は、しだいに政党(せいとう)を結成(けっせい)するようになりました。板垣退助(いたがきたいすけ)を党首(とうしゅ)とする自由党(じゆうとう)や大熊重信(おおくましげのぶ)を党首(とうしゅ)とする立憲改進党(りっけんかいしんとう)が結成(けっせい)され、このうち板垣退助(いたがきたいすけ)は、明治(めいじ)26年(ねん)7月(がつ)19日(にち)亀山(かめやま)の劇場(げきじょう)「宝積座(ほうせきざ)」で大演説会(だいえんぜつかい)を開(ひら)いています(「伊勢新聞(いせしんぶん)」より)。
※民権(みんけん)…国民(こくみん)が政治(せいじ)に参加(さんか)する権利(けんり)
※結社(けっしゃ)…共通(きょうつう)の目的(もくてき)をもった組織団体(そしきだんたい)