亀山(かめやま)でおこなわれた士族授産事業(しぞくじゅさんじぎょう)
本立社(ほんりつしゃ)
本立社(ほんりつしゃ)は、1878年(ねん)(明治(めいじ)11年(ねん))に士族(しぞく)(旧亀山藩士(きゅうかめやまはんし))の堀池欧州(ほりいけおうしゅう)・佐藤左右(さとうさゆう)・山田光次郎(やまだこうじろう)が中心(ちゅうしん)となって、第十五国立銀行(だいじゅうごこくりつぎんこう)の保護(ほご)のもと、江ヶ室(えがむろ)に設立(せつりつ)した金貸業(かねかしぎょう)です。
千百社(せんひゃくしゃ)
津茶屋町(つちゃやまち)の高月利八郎(たかつきりはちろう)、亀山町(かめやまちょう)の天野遠正(あまのとおまさ)・遠謨(えんばく)、上田村(うえだむら)の藤田伝八郎(ふじたでんはちろう)、原村(はらむら)の佐藤邦光(さとうくにみつ)・伊船村(いふなむら)の真弓藤太(まゆみとうた)が中心(ちゅうしん)になって、原村(はらむら)と伊船村(いふなむら)で牧牛場(ぼくぎゅうじょう)を営業(えいぎょう)しました。これを千百社(せんひゃくしゃ)といいます。なお、営業(えいぎょう)は明治(めいじ)11年(ねん)12月(がつ)に許可(きょか)されました。
戢光社(しゅうこうしゃ)
戢光社(しゅうこうしゃ)は、士族(しぞく)(旧亀山藩士(きゅうかめやまはんし))榊原一善(さかきばらいちぜん)が総代(そうだい)となって設立(せつりつ)した株式会社(かぶしきがいしゃ)です。1882年(ねん)(明治(めいじ)15年(ねん))以降(いこう)6年間(ねんかん)に積(つ)み立(た)てたお金(かね)で、資金(しきん)の貸(か)し付(つ)けをおこないました。しかし、この会社(かいしゃ)はうまくいかなかったようです。
緞通(だんつう) ・紡績事業(ぼうせきじぎょう)
明治(めいじ)7〜8年頃(ねんごろ)、亀山城(かめやまじょう)の払(はら)い下(さ)げが行(おこな)われ、このうち多門櫓(たもんやぐら)は、旧亀山藩家老(きゅうかめやまはんかろう)の近藤鐸山(こんどうたくざん)へ払(はら)い下(さ)げられました。多門櫓(たもんやぐら)は、その後(ご)、旧亀山藩士(きゅうかめやまはんし)が集(あつ)まって結成(けっせい)された亀山同盟報徳会(かめやまどうめいほうとくかい)によって維持(いじ)・管理(かんり)され、この頃(ころ)、多門櫓(たもんやぐら)は、緞通(だんつう)を織(お)る授産場(じゅさんじょう)として使(つか)われました。緞通(だんつう)とは、手織(てお)りの屋内用高級(おくないようこうきゅう)カーペットのことです。この緞通事業(だんつうじぎょう)についてはよくわかっていませんが、残(のこ)された史料(しりょう)によるとあまりうまくいかなかったようです。この他(ほか)にも紡績事業(ぼうせきじぎょう)がおこなわれたようですが、こちらも、うまくいかなかったようです。
製茶(せいちゃ)
1878年(ねん)(明治(めいじ)11年(ねん))5月(がつ)16日(にち)発行(はっこう)『伊勢新聞(いせしんぶん)』に、亀山(かめやま)の士族(しぞく)が、同年(どうねん)5月(がつ)1日(にち)より駒出作五郎(こまでさくごろう)という人(ひと)の家(いえ)で、イギリス人(じん)のリチール、中国人(ちゅうごくじん)の梁秀生(りょうしゅうせい)他(ほか)6名(めい)、江州(こうしゅう)(滋賀県(しがけん))での製造経験者(せいぞうけいけんしゃ)20名(めい)、その他(た)200名(めい)と、製茶事業(せいちゃじぎょう)をおこなったことが掲載(けいさい)されています。新聞(しんぶん)の内容(ないよう)によれば、この事業(じぎょう)は、大繁盛(だいはんじょう)だったようです。