![[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。](../img/text_01.gif)
亀山人物伝(かめやまじんぶつでん)
亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)にかかわるさまざまな人(ひと)について調(しら)べてみましょう。
神田五太夫(かんだ ごだゆう)
藤原国峯ともよばれ、770年ほど前の鋳物師
(いものし・いもじ)です。平氏によって1180年に焼かれた東大寺大仏の修理
(しゅうり)に加わり力をつくしました。1243年に日本の鋳物師頭
(いもじがしら)のよび名をさずけられ、たくさんの領地をあたえられました。本町2丁目ふきんをむかしは「鍋町」
(なべまち)とよんでいたのは、五太夫のやしきがあったからといわれます。
伊藤景清(いとう かげきよ)
平氏一族の武士。辺法寺荘
(へんぼうじのしょう:辺法寺ふきん)の地頭とされます。また、不動院
(ふどういん)を建てたともされます。伊藤景清のやしきのあととされる場所は、今でも一部が辺法寺町にのこされており、野元坂館跡
(やげんざかやかたあと)とよばれています。
若菜盛高(わかな もりたか)
平氏と関係が深い武士で、若菜五郎
(わかな ごろう)1204年2月に鎌倉幕府に対して反乱をおこし、さいごは小野城(小野町)にたてこもっています。幕府からつかわされた平賀朝雅
(ひらが ともまさ)によってすぐにしずめられましたので、「三日平氏の乱」
(みっかへいしのらん)のとよばれています。小野城跡には若菜五郎の関係する場所であることをしめす石碑
(せきひ)がたてられています。
平盛国(たいらの もりくに)
平資盛
(たいらのすけもり)が久我
(くが)(関町久我)でもうけた子で、資盛がなくなったあとは鎌倉で北条氏
(ほうじょうし)につかえたとされます。関氏の先祖
(せんぞ)とされ、久我には盛国の木像
(もくぞう)がのこされています。
関実忠(せき さねただ)
平盛国
(たいらのもりくに)の孫で、1204年におきた三日平氏の乱
(みっかへいしのらん)でてがらをたて、関谷二十四郷
(せきだににじゅうよんごう)(関:昼生など)の地頭
(じとう)となりました。このあとは関を名のるようになりました。はじめは山下町ふきんにやしきをかまえていたとされますが、文永元年(1264年)に亀山城を築いてうつり、その後関氏は代々亀山城主となりました。
関盛忠(せき もりただ)
関実忠
(せき さねただ)の子孫
(しそん)で、関盛政
(せき もりまさ)ともよばれます。5人の子をそれぞれ神戸
(かんべ)(鈴鹿市神戸)・国府
(こう)(鈴鹿市国府町)・峯
(みね)(川崎町)・鹿伏兎
(かぶと)(加太市場)・亀山(若山町)の城主としました。神戸・国府・峯・鹿伏兎・関氏は、関五家
(せきごけ)とよばれて、関氏がその後に現在の亀山市・鈴鹿市ふきんに大きく勢力をのばす礎
(いしずえ)をつくったとされます。
神戸盛澄(かんべ もりずみ)
関盛忠
(せき もりただ)の長男
(ちょうなん)で、神戸城
(かんべじょう)(鈴鹿市神戸)を築いて、その子孫
(しそん)は代々神戸氏を名のりました。
国府盛門(こう もりかど)
関盛忠
(せき もりただ)の次男
(じなん)で、国府城
(こうじょう)(鈴鹿市国府町)を築いて、その子孫
(しそん)は代々国府氏を名のりました。
峯政実(みね まさざね)
関盛忠
(せき もりただ)の五男
(ごなん)で、峯城
(みねじょう)(川崎町)を築いて、その子孫
(しそん)は代々峯氏を名のりました。
鹿伏兎盛宗(かぶと もりむね)
関盛忠
(せき もりただ)の四男
(よんなん)で、鹿伏兎城
(かぶとじょう)(加太市場)を築いて、その子孫
(しそん)は代々鹿伏兎氏を名のりました。
藤原俊成(ふじわらの しゅんぜい)
830年ほど前にかつやくした歌人で、百人一首にもその歌をみることができます。鈴鹿川にかかる橋の板を使ってつくられたという琴
(こと)の「鈴鹿」にちなんだ歌をよんでいます。「鈴鹿山
(すずかやま) きりの古木
(こぼく)のまろ(丸)木橋
(きばし) これもやこと(琴)のね(音)にかよふらん」
藤原定家(ふじわらの ていか)
藤原俊成
(ふじわらのしゅんぜい)の子で、父とともに活躍した歌人で、「百人一首」
(ひゃくにんいっしゅ)を選んだことで知られています。天皇のつかいとして伊勢神宮へむかった九条良経
(くじょう よしつね)にしたがって関を通ったときにえぞ桜という古い桜の木についての歌をよんでいます。「えぞ過
(す)ぎぬ これや鈴鹿の関ならむ ふり捨
(す)て難
(がた)き花の陰哉
(かげかな)」
北条政子(ほうじょう まさこ)
源頼朝
(みなもとのよりとも)の妻で、父の北条時政
(ほうじょうときまさ)とともに頼朝が平氏をたおして幕府をひらくことをささえました。1221年7月に平氏が持っていた安楽(安坂山町ふきん)・井後(井尻町ふきん)・葉若村(羽若町ふきん)を伊勢神宮の領地としてきふしています。
院春(いんしゅん)
京都を中心に活動した仏師
(ぶっし)(仏像をつくる人)で、名まえに院
(いん)の字がつく「院派
(いんぱ)」という仏師のグループのひとりです。1252年に遍照寺
(へんじょうじ)(西町)の勢至菩薩像
(せしぼさつぞう)をつくっています。
能心(のうしん)
700年ほど前の僧で、1324年7月に慈恩寺
(じおんじ)(野村三丁目)で仏教の本を書き写しています。
賢誉(けんせい)
700年ほど前の僧で、1327年10月に慈恩寺
(じおんじ)(野村三丁目)で盛尊大法師
(せいそんだいほうし)に仏教のぎしきの方法を教えています。
沙弥道智(しゃみどうち)
680年ほど前の人で、1332年6月におかあさんの33回忌と孫の一周忌のために石の塔
(とう)(宝篋印塔
(ほうきょういんとう))をたてました。その宝篋印塔の一部が亀山城の石垣の中からみつかりましたので、今は亀山神社におかれています。
良賢(りょうけん)
660年ほど前の僧で、1341年に慈恩寺
(じおんじ)(野村三丁目)で仏教の本を書き写しています。
国阿(こくあ)
630年ほど前の僧で、どんな人でも念仏をとなえれば死んだ後に極楽に行けるという教えを広めました。1382年の秋に関の地蔵堂(関町新所)で、教えを広めるためにたくさんの人びとにお札をくばっています。
一休宗純(いっきゅう そうじゅん)
560年ほど前の僧で、「一休さん」としてよく知られています。地蔵院(関町新所)の地蔵菩薩像をつくりなおした時、仏像にたましいをいれるぎしきをたまたま通りかかった一休さんにお願いしたところ、仏像におしっこをかけて行ってしまったと伝えられます。今でも地蔵院には一休さんの石像
(せきぞう)があります。
関持盛(せき もちもり)
580年ほど前の武士で、北畠満雅
(きたばたけ みつまさ)ととに幕府に反乱をおこしました。1429年2月に幕府との戦いに敗れ、羽黒(関町鷲山?)・白木(白木町)・いしか峰(場所不明)の三つの城を焼いて、たてこもっていた山下城からにげてすがたをかくしました。その後ゆるされて領地もかえしてもらっています。
顕堂(けんどう)
530年ほど前の僧で1468年9月に羽黒権現
(はぐろごんげん)(関町鷲山)のなりたちを書きあらわしました。
飛鳥井雅康(あすかい まさやす)
500年ほど前の歌人、書家。1495年に関盛貞
(せき もりさだ)のために和歌の本を書き写しています。また、1499年に富士山を見にゆくとちゅうで関盛貞のもとにたちよっています。
関盛貞(せき もりさだ)
500年ほど前の武士で、何似斎
(かじさい)とも名のりました。幕府などの命令をうけて各地で戦い関氏の力をおおきくのばしました。そのいっぽうで、宗長や飛鳥井雅康などの歌人とも関係が深く、1505年に正法寺をたててそこで歌会をひらいています。
伊勢宗瑞(北条早雲)(いせ そうずい(ほうじょう そううん))
はじめは室町幕府につかえた武士でしたが、駿河国
(するがのくに)(静岡県中部)の今川氏と関係を深め、1497年に伊豆国
(いずのくに)(静岡県東部)をうばい大名となりました。1516年には相模国
(さがみのくに)(神奈川県)をせめとり、その後北条氏が関東一の大名となる基礎をつくりました。1506年に関氏に「関氏とはしんせきだから味方になってください」という手紙を送っています。
柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)
500年ほど前の歌人で、何人かで続けて歌をよむ連歌をとくいとしていました。関盛貞
(せき もりさだ)のまねかれて、1522年、1524年、1527年の3回亀山をおとずれています。そのときの日記に宗長が見た正法寺山荘
(しょうほうじさんそう)(関町鷲山)や亀山のまちのようすを書いています。
狩野元信(かのう もとのぶ)
480年ほど前の画家(絵師
(えし))。法眼
(ほうげん)ともよばれます。のちに狩野派
(かのうは)とよばれる、それまでの日本の絵のかきかたに新しい方法をつけくわえたえがきかたを完成させました。関町沓掛
(くつかけ)の筆捨山
(ふですてやま)は、元信が東海道を旅していた時、道のわきにある山をかこうとしましたが、かくのをあきらめて筆をなげすてたことから名まえがついたとつたえられます。
関盛信(せき もりのぶ)
420年ほど前の亀山城主で、万鉄斎
(ばんてつさい)ともよばれます。1568年ごろに伊勢国
(いせのくに)にせめこんできた織田信長にしたがいましたが、1573年に織田信長によって亀山城から追い出されました。1582にゆるされて亀山城にもどりました。織田信長に亀山城を追われる前に新所城(関町新所)を築き、現在の関の町なみのもととなる町をつくったといわれます。
徳川家康(とくがわ いえやす)
三河国
(みかわのくに)(愛知県東部)のうまれの武士。1582年6月に 本能寺の変の時には堺(大阪府堺市)にいましたが、領地の三河国岡崎(愛知県岡崎市)へ逃げかえるとちゅう、加太・関から金王道
(こんのうみち)を通ったとされます。1589年に豊臣秀吉から関東地方とあわせて木崎・関地蔵(関町木崎・関町新所)を領地としてあたえれえ、木崎に自分の御殿(御茶屋御殿
(おちゃやごてん))をきずきました。瑞光寺
(ずいこうじ)(関町木崎)には家康が食べたという柿の木(権現柿
(ごんげんがき))があります。
羽柴秀吉(はしば ひでよし)
織田信長
(おだ のぶなが)につかえた武士で、織田信長がなくなった後、1583年と1584年に対立する武士たちと亀山城や峯城
(みねじょう)(川崎町)などで戦っています。この戦いの後は豊臣秀吉
(とよとみ ひでよし)と名のり、1890年には天下統一
(てんかとういつ)しました。
織田信孝(おだ のぶたか)
織田信長
(おだ のぶなが)の三男で、神戸氏
(かんべし)の養子
(ようし)となって神戸城主となりました。織田信長がなくなった後はふたたび織田氏を名のりますが、羽柴秀吉
(はしば ひでよし)と戦って敗れ、1583年に切腹
(せっぷく)しました。この後けらいの大塚良政が信孝をとむらうために福蔵寺
(ふくぞうじ)(関町新所)建てました。
関一政(せき かずまさ)
第二代亀山城主で関盛信
(せき もりのぶ)の子。1572年に織田信長によって父である関盛信とともに亀山城を追われますが、1583年羽柴秀吉により亀山城主とされました。1590年に陸奥白川
(むつしらかわ)(福島県白河市)ヘ移されますが、1600年に関ヶ原の合戦でてがらを立ててふたたび亀山城主となります。1609年に伯耆黒坂
(ほうきくろさか)(鳥取県日野町)に移されますが、幕府によってとりつぶされました。
蒲生氏郷(がもう うじさと)
近江日野
(おうみひの)(滋賀県日野町)うまれの武士で、織田信長
(おだ のぶなが)、羽柴秀吉
(はしば ひでよし)につかえました。1583年に羽柴秀吉の命令を受けて、安楽峠
(あんらくとうげ)(安坂山町)から亀山に攻めこみました。このときまわりを焼きはらっていったので鬼のようにこわい人という意味で使われる「ガモジ」の言葉のもとになったとされます。
加藤清正(かとう きよまさ)
若いころから羽柴秀吉
(はしば ひでよし)につかえ、1583年に羽柴秀吉が亀山城をせめたときには、敵の近江新七をうちとるなどのかつやくをしました。この後におこった賤ヶ岳の戦い
(しずがたけのたたかい)(滋賀県長浜市)でも大きなてがらをたて、「賤ヶ岳の七本鑓
(やり)」とうたわれました。城つくりの名人とよばれ、熊本城
(くまもとじょう)(熊本県熊本市)を築いたことで知られています。
細川忠興(ほそかわ ただおき)
織田信長
(おだ のぶなが)につかえた武士で、その後は羽柴秀吉
(はしば ひでよし)にしたがっています。1583年に羽柴秀吉が亀山城をせめたときに活躍し、秀吉のおもだった家来となりました。
山内一豊(やまうち かつとよ)
羽柴秀吉の家来で、1583年に羽柴秀吉が亀山城をせめたときに一番乗りをはたすなどの活躍をし、秀吉のおもだった家来となりました。秀吉がなくなったあとには高知城
(こうちじょう)(高知県高知市)主となりました。
堀尾吉晴(ほりお よしはる)
早くから羽柴秀吉
(はしば ひでよし)につかえた武士で、帯刀
(たてわき)ともよばれます。1583年の亀山城せめにてがらをたて、1590年に遠江浜松
(とおとうみはままつ:静岡県浜松市)城主となりました。1591年に秀吉に浜松とは別に英多郷
(あがたごう:川崎町付近)などをりょうちとしてもらっています。秀吉がなくなった後に出雲松江
(いずもまつえ:島根県松江市)城主となっています
笹山理兵衛(ささやま りへえ)
徳川家康
(とくがわ いえやす)の家来で、1590年のころに徳川家康の領地であった関の代官
(だいかん)に命じられています。1600年に伏見城
(ふしみじょう)(京都市)での戦いでなくなっています。
岡本良勝(おかもと よしかつ)
はじめは織田信孝につかえ、その後は羽柴秀吉の家来となりました。1590年に峯城
(みねじょう:)(川崎町)から亀山城に入り、亀山城全体をつくりなおし、さいしょの亀山城主となりました。1599年の関が原の合戦でやぶれ亀山城をあけわたして切腹
(せっぷく)しました。