亀山こども歴史館トップページ 日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)武士政権(ぶしせいけん)の成立(せいりつ)

[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。

武士政権(ぶしせいけん)の成立(せいりつ)

平氏(へいし)との戦(たたか)いに勝(か)った源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉(かまくら)に幕府(ばくふ)を開(ひら)きます。頼朝(よりとも)は荘園(しょうえん)などに地頭(じとう)を置(お)き全国(ぜんこく)の支配体制(しはいたいせい)を固(かた)めます。亀山市域付近(かめやましいきふきん)には平氏一族(へいしいちぞく)やその郎党(ろうとう)などの領地(りょうち)が数多(かずおお)く存在(そんざい)していたとみられ、これらを幕府領(ばくふりょう)とするとともに関実忠(せきさねただ)を地頭(じとう)として置(お)かれたと伝(つた)えられます。

 

源氏(げんじ)と平家(へいけ)の戦(たたか)

源氏(げんじ)と平氏(へいし)の戦(たたか)いの中(なか)で、都(みやこ)に攻(せ)め上(あが)った木曽義仲(きそよしなか)を攻撃(こうげき)するために伊勢国(いせのくに)の兵(へい)が鈴鹿峠(すずかとうげ)の封鎖(ふうさ)を行(おこな)い、源義経軍(みなもとのよしつねぐん)が関(せき)、加太(かぶと)から伊賀(いが)へ進行(しんこう)しています。また、平氏(へいし)が滅亡後(めつぼうご)も、源義経(みなもとのよしつね)と源頼朝(みなもとのよりとも)の争(あらそ)いや平氏(へいし)の残党(ざんとう)が反乱(はんらん)の際(さい)には鈴鹿峠(すずかとうげ)や関(せき)などで戦(たたか)いが行(おこな)われています。

 

三日平氏(みっかへいし)の乱(らん)

1204年(ねん)(元久(げんきゅう)元年(がんねん))、平氏(へいし)の残党(ざんとう)が伊勢(いせ)と伊賀国(いがのくに)で反乱(はんらん)を起(お)こします。その首謀者(しゅぼうしゃ)である若菜五郎(わかなごろう)は、関(せき)や小野(おの)などに城(しろ)を構(かま)えて幕府軍(ばくふぐん)と戦(たたか)い小野城(おのじょう)で最期(さいご)をとげています。この反乱(はんらん)は短期間(たんきかん)で終(お)わったため「三日平氏(みっかへいし)の乱(らん)」とよばれます。小野町(おのちょう)にある小野城跡(おのじょうあと)は、この時(とき)の城跡(しろあと)とされ現在(げんざい)、土塁(どるい)や堀(ほり)の跡(あと)が残(のこ)っていますが、これらは三日平氏(みっかへいし)の乱(らん)よりも300年(ねん)ほど後(あと)に造(つく)られたものと見(み)られます。

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