織田信長(おだのぶなが)と関氏(せきし)
1566年(ねん)(永禄(えいろく)11年(ねん))、織田信長(おだのぶなが)は伊勢(いせ)に侵攻(しんこう)し、関氏(せきし)とその一族(いちぞく)は織田氏(おだし)に従(したが)います。しかし、1573年(ねん)(元亀(げんき)4年(ねん))に関氏(せきし)が追放(ついほう)され、関氏(せきし)・峯氏(みねし)・鹿伏兎氏(かぶとし)・国府氏(こうし)は力(ちから)を失(うしな)います。1582年(ねん)(天正(てんしょう)10年(ねん))本能寺(ほんのうじ)の変(へん)により信長(のぶなが)が急死(きゅうし)すると、関氏(せきし)は亀山(かめやま)に戻(もど)ります。
織田信長(おだのぶなが)時代(じだい)の亀山城(かめやまじょう)
江戸時代(えどじだい)の終(お)わりごろに記(しる)された『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、関氏(せきし)が追放(ついほう)された後(のち)の亀山城(かめやまじょう)には、織田信長(おだのぶなが)の家臣(かしん)である伴盛兼(ばんもりかね)が住(す)んでいたと記(しる)されていますので、伴盛兼(ばんもりかね)が管理(かんり)をまかされていたようです。また、のちに亀山城主(かめやまじょうしゅ)となる岡本良勝(おかもとよしかつ)の父(ちち)である重国(しげくに)が亀山城(かめやまじょう)にいたという記録(きろく)もあります。