亀山こども歴史館トップページ 日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)中世(ちゅうせい)の城跡(しろあと)

[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。

中世(ちゅうせい)の城跡(しろあと)

(しろ)とは戦(たたか)いのときに築(きず)かれる陣地(じんち)のことです。しかし、争(あらそ)いが多(おお)くなると、武士(ぶし)が住(す)む館(やかた)も守(まも)りに適(てき)した形(かたち)へと変化(へんか)し、これらをまとめて城(しろ)と呼(よ)んでいます。市内(しない)には戦国時代(せんごくじだい)の城跡(しろあと)が残(のこ)されています。この中(なか)でも、関氏(せきし)や峯氏(みねし)、鹿伏兎氏(かぶとし)といった有力武士(ゆうりょくぶし)の城(しろ)は、複数(ふくすう)の区画(くかく)(曲輪(くるわ))から構成(こうせい)され、周辺(しゅうへん)の他(ほか)の城(しろ)とは飛(と)びぬけた大(おお)きさを誇(ほこ)ります。どんな城跡(しろあと)があるか調(しら)べてみましょう。

 

小川城跡(おがわじょうあと)

小川町一色(おがわちょういっしき)の東(ひがし)にある小(ちい)さな山全体(やまぜんたい)を城(しろ)としています。江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)では「小川図書頭(おがわずしょのかみ)」の館跡(やかたあと)としています。土手(どて)(土塁(どるい))で囲(かこ)われた小(ちい)さな区画(くかく)(曲輪(くるわ))を並(なら)べて守(まも)りを固(かた)めています。

 

白木城跡(しらきじょうあと)

白木町(しらきちょう)下白木(しもじらき)の東(ひがし)にあります。江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)では「白木氏(しらきし)」の館跡(やかたあと)としています。城(しろ)の中心部分(ちゅうしんぶぶん)は家(いえ)が建(た)てられていますが、その東側(ひがしがわ)に土手(どて)(土塁(どるい))が残(のこ)っています。

 

小野城(おのじょう)

小野町(おのちょう)の集落(しゅうらく)がある高台全体(たかだいぜんたい)が城跡(しろあと)となります。江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)では「小野筑前守(おのちくぜんのかみ)」の館跡(やかたあと)とされます。これまでの発掘調査(はっくつちょうさ)で方形(ほうけい)の区画(くかく)が並(なら)んでいたことが分(わ)かっています。城跡(しろあと)の東端(とうたん)に高(たか)さ3mの土手(どて)(土塁(どるい))が残(のこ)されています。

 

住山砦跡(すみやまとりであと)

住山町集落(すみやまちょうしゅうらく)の北(きた)、高台(たかだい)の端(はし)にあります。低(ひく)い土手(どて)(土塁(どるい))で囲(かこ)まれた区画(くかく)があり、江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)では蒲生氏郷(がもううじさと)の家臣(かしん)であった「住山甚左衛門(すみやまじんざえもん)」という武士(ぶし)の館(やかた)であったとしています。1583年(ねん)・1584年(ねん)(天正(てんしょう)11・12年(ねん))に行(おこな)われた羽柴秀吉(はしばひでよし)の亀山城攻(かめやまじょうぜ)めの陣地(じんち)であった可能性(かのうせい)があります。

 

野元坂館跡(やげんざかやかたあと)

辺法寺町(へんぼうじちょう)集落(しゅうらく)の東(ひがし)、安楽川(あんらくがわ)に面(めん)した高台(たかだい)の端(はし)にあり、現在(げんざい)館跡(やかたあと)の西半分(にしはんぶん)は東名阪自動車道(ひがしめいはんじどうしゃどう)が通(とお)っています。江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)では、鎌倉時代(かまくらじだい)の武士(ぶし)であった伊藤景清(いとうかげきよ)の館跡(やかたあと)としています。発掘調査(はっくつちょうさ)で、鎌倉時代(かまくらじだい)から室町時代(むろまちじだい)の土器(どき)がみつかっています。また、1583年(ねん)・1584年(ねん)(天正(てんしょう)11・12年(ねん))に行(おこな)われた羽柴秀吉(はしばひでよし)の峯城攻(みねじょうぜ)めの陣地(じんち)とするために改造(かいぞう)された可能性(かのうせい)があります。

 

山下城(やましたじょう)(沢遺跡(さわいせき)

山下町(やましたちょう)の鈴鹿川(すずかがわ)に面(めん)した平(たい)らな場所(ばしょ)にあります。発掘調査(はっくつちょうさ)で堀(ほり)や土手(どて)(土塁(どるい))の後(あと)がみつかり、関盛雅(せきもりまさ)の山下城(やましたじょう)の跡(あと)と考(かんが)えられています。現在(げんざい)は住宅団地(じゅうたくだんち)となっており、城跡(しろあと)はのこっていません。

 

亀山城跡(かめやまじょうあと)(古城(こじょう)

関氏(せきし)の本拠地(ほんきょち)の城(しろ)で、江戸時代(えどじだい)の記録(きろく)では1264年(ねん)(文永(ぶんえい)2年(ねん))に関実忠(せきさねただ)によって築(きず)かれたとされます。現在(げんざい)の愛宕山(あたごやま)から若山町(わかやまちょう)、亀山西小学校(かめやまにししょうがっこう)や市役所(しやくしょ)あたりまでの広(ひろ)い範囲(はんい)が城跡(しろあと)であったと考(かんが)えられます。発掘調査(はっくつちょうさ)で大(おお)きな堀跡(ほりあと)がみつかっています。1583年(ねん)(天正(てんしょう)11年(ねん))に羽柴秀吉(はしばひでよし)によって攻(せ)め落(お)とされています。

 

峯城跡(みねじょうあと)

川崎町森(かわさきちょうもり)から柴崎(しばさき)にかけての小山全体(こやまぜんたい)が城跡(しろあと)です。1346〜1370年(ねん)(正平年間(しょうへいねんかん))に峯政実(みねまさみ)によって築(きず)かれたとされます。現在(げんざい)の城跡(しろあと)は、高(たか)い土手(どて)(土塁(どるい))や石垣(いしがき)、天守(てんしゅ)が建(た)てられていたとされる土台(どだい)などがのこっており、1583年(ねん)・1584年(ねん)(天正(てんしょう)11年(ねん)・天正(てんしょう)12年(ねん))に行(おこな)われた戦(たたか)いやその後(ご)によって攻(せ)め落(お)とされています。

 

鹿伏兎城跡(かぶとじょうあと)

加太市場(かぶといちば)の横(よこ)にあり、大和街道(やまとかいどう)を眼下(がんか)に見下(みお)ろす標高(ひょうこう)265mの丘陵(きゅうりょう)尾根上(おねじょう)にあります。正平年間(しょうへいねんかん)(1346年(ねん)〜1370年(ねん))に関一族(せきいちぞく)の鹿伏兎氏(かぶとし)が築(きず)いたと伝(つた)えられます。入口(いりぐち)には高(たか)さ2.6mの石垣(いしがき)が見(み)られ、城内(じょうない)には井戸(いど)も残(のこ)っています。中世山城(ちゅうせいやまじろ)の遺構(いこう)がよく残(のこ)っており三重県史跡(みえけんしせき)に指定(してい)されています。かつて城主(じょうしゅ)鹿伏兎定長(かぶとさだなが)が室町将軍(むろまちしょうぐん)に白(しろ)い鷹(たか)を贈(おく)ったことから別名(べつめい)を白鷹城(はくたかじょう)と呼(よ)ぶといわれています。

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