応仁(おうにん)の乱(らん)と関氏(せきし)
1467年(ねん)(応仁(おうにん)元年(がんねん))、京都(きょうと)で足利(あしかが)将軍家(しょうぐんけ)の跡継(あとつ)ぎ争(あらそ)いをきっかけとして応仁(おうにん)の乱(らん)がおこりました。その当時(とうじ)亀山市域(かめやましいき)に力(ちから)を持(も)っていた関氏(せきし)も京都(きょうと)に登(のぼ)って戦(たたか)いに参加(さんか)しています。
室町幕府(むろまちばくふ)と関氏(せきし)
関氏(せきし)が確実(かくじつ)に記録上(きろくじょう)で見(み)ることができるのは、1422年(ねん)(応永(おうえい)29年(ねん))で、伊勢参宮(いせさんぐう)に向(む)かう将軍(しょうぐん)足利義持(あしかがよしもち)夫人(ふじん)(日野栄子(ひのえいこ))を関持盛(せきもちもり)が加太氏(かぶとし)などとともに「新所(しんじょ)」(関町新所(せきちょうしんじょ))で接待(せったい)しています。
しかし、関持盛(せきもちもり)は、1429年(ねん)(正長(しょうちょう)2年(ねん))に北畠氏(きたばたけし)とともに幕府方(ばくふがた)と戦(たたか)って敗(やぶ)れ、関氏(せきし)の領地(りょうち)は守護(しゅご)の土岐持頼(ときもちより)と長野氏(ながのし)に与(あた)えられます。その後(ご)、幕府(ばくふ)は関氏(せきし)の領地(りょうち)を返還(へんかん)したため、長野氏(ながのし)はこれに反発(はんぱつ)し、1448年(ねん)(文安(ぶんあん)5年(ねん))に昼生(ひるお)で関氏(せきし)と長野氏(ながのし)の戦(たたか)いが起(お)こっています。
この後(ご)は、関氏(せきし)は室町幕府(むろまちばくふ)と密接(みっせつ)な関係(かんけい)を保(たも)ちます。

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