亀山こども歴史館トップページ 日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)正法寺山荘(しょうぼうじさんそう)と人々(ひとびと)の交流(こうりゅう)

[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。

正法寺山荘(しょうぼうじさんそう)と人々(ひとびと)の交流(こうりゅう)

関何似斎(せきかじさい)は、和歌(わか)、連歌(れんが)をたしなみ、連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)(1448〜1532)を大永(たいえい)2年(ねん)(1522)・4年(ねん)(1524)・7年(ねん)(1527)の3回(かい)にわたり亀山(かめやま)に招(まね)いて、正法寺山荘(しょうぼうじさんそう)などで連歌会(れんがかい)を行(おこな)っています。この様子(ようす)は宗長(そうちょう)の日記(にっき)である『宗長日記(そうちょうにっき)』に記(しる)されています。

 

正法寺山荘跡(しょうぼうじさんそうあと)

正法寺山荘(しょうぼうじさんそう)(関町鷲山(せきちょうわしやま))は、関盛貞(せきもりさだ)(何似斎(かじさい))が永正(えいしょう)2年(ねん)(1505)に鈴鹿川支流(すずかがわしりゅう)の小野川上流(おのがわじょうりゅう)に建立(こんりゅう)した寺院(じいん)で、何似斎(かじさい)の別荘(べっそう)も兼(か)ねていました。正法寺山荘(しょうぼうじさんそう)は、室町時代(むろまちじだい)の有力武士(ゆうりょくぶし)の暮(く)らしぶりや室町時代(むろまちじだい)の文学(ぶんがく)のようすを知(し)ることができる重要(じゅうよう)な遺跡(いせき)として、昭和(しょうわ)56年(ねん)(1981)に国史跡(くにしせき)に指定(してい)されています。



  正法寺山荘跡(しょうぼうじさんそうあと)


  正法寺山荘(しょうぼうじさんそう)から発掘(はっくつ)されたもの

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